逃げろ

夜中の自己嫌悪の膨張がいよいよ耐えがたくなって、勉強しようって倫理の教科書を開くけど、机に向かうのがつらいので、枕を持ってきて床にひっくりかえって読む。円い蛍光灯の光に透かされた指のさきの爪が思ったより伸びている。こないだ切ったばっかりなのにって、つく溜息が前より長くなっている気がした。

 

受験が近づくごとに時間の流れは痛烈になっていく。こうやって記事を書きちらかしている間にも一秒一秒受験対策の時間が削れていること、思うたびにどうしようもなく悲しい。これまでの勉強量があまりに少ないので正直食事の暇まで惜しむべきなんだけど、ぼくの怠惰はどうせ惜しんで作った時間をさらに惜しいことにつかうに決まっているんだ。

なので、悠々と暮らしてる。きわめて。茫漠とした将来の不安を抱えてるからそうせざるをえない。いや、別に不安は茫漠としてないか。そんなの言い逃れにもなってない。不安の種だけははっきりしてるんだ。勉強時間と、怠け癖。

 

受験勉強のことを考えるともうひとつつらいことがある。本を読む、音楽を聴く、散歩する、みたいな精神にとって大切、っぽい行為の価値がおしなべて、勉強の前にゼロに等しくなること。

勉強して心身の健康が損なわれたら本番で実力出せなくて元も子もないから、とか言い訳を用意してそういう行為につかう時間をつくってみるけど、受験への不安でそれだって手につかなくて結局なにもしない時間が増えて精神の衛生状態はどんどん悪化の一途をたどってる。

だいいち勉強以外のことをやめたとして、健康が損なわれるほどはたして自分は勉強できるのかという話。疑わしい。はなはだ疑わしい。かといって勉強しなければ健康が損なわれないかっていうとそうでもない。どうせ不安で押しつぶされるに決まってる。

たぶん、結局勉強に打ちこむのがいちばん精神にはいいんだろう。でも、それがわかったからってじゃあ勉強だと気合が入るなら、今頃こんなに落ちぶれてはなかったと思う。学力に限らず、いろんなこと。芸術とか、人格とか、人間関係とか。

 

話は飛ぶけど倫理の教科書でいま西洋哲学の単元を予習してる。どうせ学校の授業じゃやらないしやってたって聞かないから仕方なく。英語からの逃避ってのもある。

で、読んでるとハイデッガーとかウィトゲンシュタインとか見たことある名まえ(かっこいい)と顔(こわい)がたくさん出てくる、んだけど興味がぜんぜん湧かない。哲学は何度かかじろうとしてきた分野だけどそのたびに挫折してる。

なんか、苦手というか、あんまりいまのぼくの精神が必要としていないのかもしれない。経験とか、実存とか、知らんし。そしてぼくにとって知らないことというのはこれまで知らなくても問題のなかったことであり、そのうちのほとんどはこれからも知らなくても問題のないことである。というわけでぼくが哲学について何かを知る必要はない。証明終了、あと思考停止。

というかそういうのって究極的には自分で考えていかなくちゃいけないことで、どの哲学者の思想も出発点は自分のための思索なんだろうし、他人のためのものである限りはそれをぼくが鵜呑みにするわけにはいかず、鵜呑みにできない以上はそこにあるのは知らないおっさんおばはんの勉強ノートだ。そんで複数のおっさんおばはんの勉強ノートを要約したのがぼくが読んでる倫理の教科書である。なにそれ?

いやまーどれもえらいおっさんおばはんだしその話を理解して自分なりの思索につなげていくのはめちゃくちゃ大切な行為なんだろーけど。でも鵜呑みにできない話を理解するのは正直かなりたるい。そのあと考えるのはもっとたるい。

あ、結局やる気ないだけか。

まー全国高校生マークシートぬりぬり選手権、またの名をセンター試験、に向けたうっすい勉強すらも耐えがたいガキの学問に対する姿勢なんてのはこんなもんだ、とか、あー、また言い訳が出てる。直さなきゃいけないんだけど。

まわる

中古で買った文庫本に栞がはさまっていた。片面には出版社のロゴマーク、その裏には名まえもしらない「 高名な学者」の名言が印刷された、ぺらぺらなやつ。じゃまだったので片手でぽいと床に投げたら、栞はくるくる回転しながら落ちた、その細長い長方形を縦に二等分する線を中心に、くるくる。それがおもしろくってぼくは栞をひろっては投げ、拾っては投げした。意外と、きれいに回転させるのにはこつが要った。有体に言えば気張ったらいけないということで、ぼくが最初にやったみたいにできるだけ無造作に、ぽい、というかんじで投げたらいい。それに気づいてうまく投げられるようになるまでに、七、八回くらいは要った。今はもう、ごみ箱に棄ててある。

 

思えばむかしっから回るものがすきだ。独楽とか、扇風機とか、床屋の看板とか、メリーゴーラウンドとか、たまに見かける一周十二分の時計とか、気づいたらじーっと見ている。フィギュアスケートも選手とか技術とかはよくわかんないけどやってたら観る。

 

ペンをまわすくせもある、といっても、大会とかのあるいわゆる「 ペン回し」じゃなくて、ペンの尻を机に置いて先を指に突き立てて、もう片方の指で力を加えてドリルみたいにまわす、っていう不格好なものだ。ぐるぐる、っていうよりは、ぎゅるるる、ってかんじの回転。ペンの印字とか輪郭がぼやけるのが見ていて楽しい。だいたい最後は机に倒れ込むので、ばた、という音がして、テスト中だと申し訳ないことになる。やっちゃうけど。

 

バレー部のクラスメイトが人差し指の上でボールを回してるのをみて、もっかいやって、って言って怪しまれたこともある。回っている最中よりも力をうしなってだんだん回転速度が落ちていくさまが、とても愛らしい。映画「 少林サッカー」でもラストシーンの、カンフー使いの女の子が指のうえでボールにすごい回転をかけていくシーンがすきだ。あと旋風脚のハゲ。

ちなみにクラスメイトは怪しみながらも計三回やってくれた。いいやつだった。

 

イヤフォンをカウボーイみたいにぶんぶん振り回して断線させてしまった経験もある。なんにしても先におもりのついたヒモというのは回すためにあるんじゃないかと思う。忍者になったら鎖鎌を使いたい。単純に鎖分銅でもいいけどやっぱり鎌ほしい。

でもいざって時に出してきて刀とか槍とかもってる周りの忍びに「 ええ……鎖鎌って……」みたいな反応されたら恥ずかしい。だって絶対だれも使ってない、鎖鎌。鎖鎌好きのぼくとしても考えたひとの正気は疑ってる。そんでそれがただの思いつきに終わらずにいまでも存在が知られているというのも不思議だ。鎖分銅の持ち手に刃物をつける発想はまだわかるにしてもそれが刀でも槍でもなく鎌ってのがまるで不可解だ。なんでわざわざマイナーとマイナーを掛けあわせたのか。もしかしたら家に刃物がそれしかなかったのかな。農民発のトレンドなのかも。忍者ってふだん農民が多いって言うし。

 

あとこないだ京都市立水族館に行ったときも、鰯のたくさんいて竜巻みたいにぐるぐる回るのに一時間くらい見入ってしまっていた。なんか、桜と鰯、とかいう特別展示で、あたりに桜を模した香料とあからさまなヒーリングミュージックがまき散らされていてすこし不快だったことを覚えている。

鰯の螺旋の軌道、それそのものより、ときどき通るエイとか、撒かれる餌とかにぶわっとかたちを崩すのにぼくは感動した。まるで機械に命令されているみたいにぐるぐるぐるぐる飽きもせずに回転しつづけるその一匹一匹が、やっぱり自己を持ったひとつのいきものだってことにひどく安心していた。五十分くらい、その水槽を見つづけてたと思う。途中から足が疲れて体重を預けっぱなしにしていたせいで、持っていた傘の軸が歪んでしまった。

 

そういえば傘も、誰もいないときを見はからってくるくる回すくせがある。雨滴がわーっと飛びちるのをみるのが楽しい。

 

プラネタリウムでもやっぱり星が回転するところがすきだ。「 ではもう少し先、今晩の夜空を眺めてみましょう」みたいなアナウンスが入って、時間が一気に進むところ。一個だけ動かない、回転の眼の北極星に視線をかためて、星がぎゅうっと動くのを、ぼんやりととらえる。

独楽の軸、扇風機のモーター、はじめ、回転の中心というのはなんでもすてきだけど、北極星ポラリスはまた格別だ。遠心力で端へ端へ吹きとばされてしまった、夢とか魔法とかそんなたぐいのものが、あそこには残っているというかんじがする。あー、プラネタリウム行きたいな。近所だとどこでやってるんだろ。

「 ライオン丸G」を観ました

ビデオ借りてちびちび見てたのがようやく最終回まで漕ぎつけたので感想を書きつけておきます。結論だけ先に書くとおすすめはしません。おもしろかったけど。

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特撮ヒーロー番組っていったらだいたい仮面ライダーとかスーパー戦隊とかウルトラマンとか、子ども向けにつくられている作品が多いけど、この作品はそうではない。いわゆる深夜特撮、牙狼とか衝撃ゴウライガンみたいな、ニッチな特撮ファンの大人のための作品だ。

だからだいたい朝とか夕方だと放送コードにひっかかるよーなエログロや子供受けしないホラーやシュールギャグ、陰鬱なストーリーが展開されがちなんだけど、ライオン丸Gはそういった深夜特撮のなかでもとくにその傾向が強い。

付けると発狂する謎のコンタクトレンズ・スカルアイが横行し治安の悪化した歌舞伎町が舞台。主人公の獅子丸は売れないホストでヒロインのサオリはキャバ嬢、ふたりを筆頭に登場人物はそろいもそろって下ネタを連発するし、戦闘は特撮よかキルビルみたいなアクション映画っぽく、闇金融や人身売買みたいなヤクザな話がぼかすか出てきて、なのにいつまでたってもみんなおちゃらけている。かと思えば終盤一気に陰鬱な展開へ転がりこみ、最終回では血みどろの残虐なシーンが続き、それでもまだ下ネタが続いている。それくらい、ライオン丸Gは悪趣味。とにかく悪趣味だ。

いちばん分かりやすくいうと、獅子丸が股間を掻きむしってるとこから始まってとんでもない下ネタで終わる。下ネタに始まり下ネタに終わる。それがライオン丸Gという作品である。

 

でもそれでいて、物語自体はけっこうふつーにヒーローモノやっているのがこの作品のおもしろいところだ。ふつーどころか、物語の大筋を見てみると、むしろ多くのヒーローモノよりも真摯に「 変身ヒーロー」というものと向きあっていると感じられる。

ある日突然ほとんどたまたまみたいな経緯で変身能力を与えられた男が、どのようにそれを受けいれて、己のありかたを変革させていくか、というのはひとつ変身ヒーローモノの多くが共有するテーマだとおもう。つまりそういう場合、ヒーローが完成する過程を描くわけだけど、ただ多くの場合、ヒーローが未完成の状態が長引くことはあまりないし、完成の過程をじっくり描いてくれる作品というのはまだ見たことがない。

たぶん、それじゃヒーローモノとして成立しないからだ。だからぼくがこれまで見てきた特撮ではたいてい、主人公が最初からある程度ヒーローらしい素質を持った状態からスタートしていた。

ただライオン丸Gは違う。なんてったって深夜特撮でコンセプトも右に書いたような人好きのするものだからまずヒーローモノとして成立する必要がない。だから獅子丸は物語開始当初、どころか最終回ギリギリまでひどい臆病者で、最初に変身したときは自分の姿にさえ怯えていた。それが少しずつ自分の宿命を受けいれ、戦う覚悟を固めていく、というのが大筋になる。一シーン一シーンみるとめちゃくちゃやってるんだけど全体を俯瞰してみるとその獅子丸が覚悟を固める道筋というのはけっこう整理されていて、ここがすごく意欲的だなと思うところだし、それがそのまま続けば名作になれたかもしれないけど……ただそうもいかなかった。

問題は、けっきょく獅子丸が己の宿命を受けいれて最終決戦に臨むとき、その動機が義憤ではなくてたんなる私怨だということだった。つまり「 どういうものがヒーローか」「 どういう姿勢が正義なのか」という、ヒーロー像の確立には至らなかった。まー平成ライダーが一年まるまる使ってできない場合もあるよーなことだし、一クールでは到底できないんだけど、だからってこの物語の不完全さを許容できるかっていうとそうでもないよな……大風呂敷ひろげて畳めなかったってかんじが強い。

 

深夜特撮という特殊なステージでさらに特殊なことに挑戦し、しかし変身ヒーローというジャンルの掲げるテーマに誰より真摯に向きあい、けれども最後まで行きつけなかったライオン丸Gは、何というかすごくひとことでは言い表しづらい作品だ。意欲作なのは確かなんだけど、失敗作と言い切っていいのかどうか……不愉快なところも多いんだけど、観てて楽しいのは確かだし……大成功か大失敗で言えば大失敗なんだけど、成功か失敗かで言えば成功のよーな気も……。

なんにしても、「 知る人ぞ知る」で済ませておくにはあまりにも、いやちょっと、ほんと、ほんのちょっと。ほんのちょっとだけ惜しい作品だ。気になったらでいいから観てほしい。

「 コンクリート・レボルティオ」をみました(とりあえず二話まで)

二クール目、THE LAST SONGはのちのち別記事をもつことにして、とりあえず一クールみたとこの感想を、一話ずつ分けながら書きつけておこうと思う。できるだけぼやかしていきたいけど無意識のうちにこぼしちゃうネタバレもあると思うので、未視聴のかたは避けたほうがいいかも。

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第一話 東京の魔女

まず最初に目を引いたのはビジュアルだった。影がすくなくビビットな色付けはさまざまな超人が闊歩する世界の異様さを、やけに凝った小物やファッションは昭和の空気感を、それぞれ説得力あるかたちで導入部から的確に示してくれた。サイズもデザインの方向性も全然違うヒーローたちが戦うバトルシーンにも目をひかれたし、あと、その。おっぱいのこだわりも、良かった。時系列や設定など不明瞭な状態から適宜設定を公開していくSF小説形式で情報を扱うので、最初の数話はちょいと分かりづらいところがあったが、この一話から一貫したビジュアルのおもしろさがそれをうまくカバーしてくれていたと思う。

一話の物語は導入部としてとてもよくできている。なんだかわからんが明らかになんかのパロディだな! というものの奔流に目をぐるぐるさせながら観ていくと、ドタバタと始まるストーリーは主要キャラの能力や世界観設定の説明をきっちり挟みつつ切ないラストへ導かれ、今後の展開への期待高まる謎に満ちた未来パートに収束。

正義の超人を冷徹にとり締まらなくてはならない制度、そのもとにある超人化という組織のいびつさを提示しつつ、そこに属しつつも正義の超人に対するあこがれを捨てきれない人吉爾朗という主人公のありかたが第一話のオチからすでにはっきりと表れている。

またその後の展開の布石らしきところものっけからちらほらと見受けられる。輝子の「二十歳になりました」はきっと、大人と子供との断絶を描くこの物語においては、のちのち重みを増してくる重要なセリフだ。

 

第二話 「黒い霧」のなかで

「 昔はよかった」ってよく言うけど、案外そうでもないんじゃないかと。そんな問いかけを、いつまでも子供のままでつねに時間流にとり残されつづける存在、オバケの風郎太の視点から、過去と未来を行き来しつつ描く話。いやー、いきなりエグいことをさらっとやりやがる。こんなこと言うのもナンだがコンレボのシナリオは相当拗らせてるよ。ちょっとどうかと思うよ。

今回はここまで観てきた十三話のなかじゃダントツで過去・未来の扱いかたがうまい。神化四十二年と四十六年のあいだにある出来事、人吉爾朗を超人課から抜けさせた断絶は、このエピソードでは善悪二元論の消失というかたちで現れている。正義だと思っていた行為が、じつはある側面では悪でもあったことが判明する、という流れだ。ここに、正義と悪にきっぱりと世界を二分するモノのみかたが子供だましの幻想でしかない、というこの世界の残酷な現実性があらわになり、神化四十六年のシーンで風郎太はそれを嘆く。

重要なのはその世界の残酷さを分かりきっている人吉爾朗が、過去編でも未来編でも、風郎太の子供っぽさを否定せず、むしろそのままでいろと全面的に肯定するところにあると思う。超人がいつでも正義とは限らないし、超人課は決してヒーロー集団じゃない。そこを割りきってしまったほうがやりやすいと分かっていても、それでも爾朗は、さっき言ったような子供じみた幻想を信じる純粋さを捨てたくないし、そのために、それをいつまでも持ちうる風郎太を必要とした。

ここに、どうしても失われてしまう子供の無垢なこころのような過去のうつくしさを、惜しまざるをえない大人の哀愁、という、コンクリート・レボルティオのひとつの芯がはっきりと見える。それはむかしの作品のパロディを多用するこの作品の制作者にもそのまま適用できることだし、「 これは古い人間のノスタルジイだ」という脚本家の強烈な自覚がうかがえ、この作品で多用されるパロディの必然性を知ることができる。どうやらこの作品はただの超人パラダイスじゃない、懐古趣味がつくったキメラじゃないぞと、ぼくはこの二話で実感した。

これはキャラクターどころか制作側まで総出で、子どもだった自分、昭和のころの思い出といった過去と格闘する物語だ。それを見届けるからにはこっちだってそれ相応の覚悟が必要だろう。コンレボのストイックさ、容赦のなさが存分に表れたエピソード。

 

三話 鉄骨のひと

村上龍「 海の向こうで戦争が始まる」を読んだ

同著者作はついこないだデビュー作から入ったので、折角だから発表順に追っかけてみようというこころみのもと、とりあえず、二作目であるこの作品を読んでみた。前作とくらべると、さすがにはじめて村上龍にさわった衝撃がないぶん読了後の感慨は比較的ちいさいが、読んでいる最中に要した体力、驚かされた文章表現のかずはこっちのほうが頭一つ上まわる。とにかく村上龍という作家の、巧さを思いしらされる作品だった。

 

前作、「 限りなく透明に近いブルー」もいいかげん物語性がうすくて純文学然とした作風だったけど、この「 海の向こうで戦争が始まる」にはいよいよ具体性がない。どこでもない国の海辺で出会った、フィニーという女と名前のない「 僕」との幻想、海の向こうの街のビジョン。それだけで物語は強引に進行されていく。そこに起承転結もカタルシスもオチも、いちおうの筋書というようなものさえもない。物語の全体性というベールをはがしたその奥の、剥きだしの肉体性、村上龍文学の熾烈さと、読者はこの小説で対峙させられる。

 

けれどその一方でここに描かれているものごとはどうしようもなく具体的だ。街の風景、ごみのにおい、殴られた時の痛み、血のぬるぬるした感触、そういった感覚の描写ももちろんのこととして、海の向こうの街のひとたちの人物像も、外見、家族構成からその性格と趣味嗜好にむかしの思い出、そして彼らのもつ残虐性や破壊への欲望まで。登場するページ数に似つかわしくないほど濃密に細かく描写して、タイトル通りの戦争のはじまるまで、とにかく街のすべてを語りつくす。

ぼくはこの、語りつくす、というところにこの作家の特質を見た気がする。小説という限られた枠のなかに、自分の世界観や人間観のようなはてしない大きさものを入れるとき、村上龍はそのなかの全体を想起させる一部分を切り取って枠におさめる、というような手法を使わない。とにかくすべてを圧縮して圧縮して、描かれるべきそのままの姿を小説につめこむ。それはいろんなひとがやりたがることだけど、解釈の余地を与えないほどの情報量、肉体感覚を凌駕するほどの熱量をもつ、あの文章が書ける村上龍にしか、たぶんできないことなんだろう。

 

この小説で起る、カップルがみる海の向こうの街の「 戦争」は、実のところ戦争ですらなくて、一方的な虐殺だ。戦争を実行する兵士にも爆弾にも、敵対者はいない。ただ理由なく街と人を破壊していくだけだ。それはきっと純粋な残虐性や破壊への欲望といった、ここまででひとりひとりの街の人物たちのなかに描かれてきた破滅的な衝動、その発露に過ぎない。

破壊の描写はこれまでと様変わりしたように淡々として無表情だけど、だからこそ読む側を疲弊させる息ぐるしさをはらんでいる。そこまでの、前述したよーな濃密な描写で深く知り、明確なイメージをもってある程度の親しみすら感じていたひとが、街が、当然のように破壊されていくのが耐えがたい。その苦痛が思考の速度を上回ったときの放心状態は恍惚に似て、読んでいる最中のそんな感情の変化と同期するように物語は、「 僕」とフィニーのたわいなくて美しいやりとりのなかに収束する。

半分くらい読んでから気づいたことだけど、この小説で描かれる海の向こうの街のビジョンは読んでいる最中のこちら側の精神の変化とまるで同じように動いてとじていく。ぼくが濃密な描写に疲弊する、それと同じように街の退廃的な描写が続いて、それがある程度まで達したところで文章の情報量が思考を上まわってぼくの意識は熱に浮かされたようになる、するとただ殺すだけの戦争は始まってすべてが破壊されて終る。

しかも、読んでいる最中ぼくのこころは目まぐるしく動いていくけれど体はただ椅子に座ってページをめくるだけ、というその様子さえ、「 僕」とフィニーがコカインを打ってただぼんやりと海の向こうを眺めるのと同じように作品のなかに映っている。

それをまるで鏡みたいだな、と思っていると、最終ページ、

すでに太陽は海面で跳躍するのを止めている。

この最後の一文を読んでぎょっとする。日が沈んで、海が太陽の光を反射するのをやめる、それと同じくして小説は終って、 「 海の向こうで戦争が始まる」はぼくのこころを映すのをやめる。徹頭徹尾、この小説は読者の心を映しつづけるのだとぼくは気づく。

 

物語を追っかけていると突然自分の存在にとても似たものをみつけて、なにかたいへんな真理に肉薄したような熱狂に陥る。この作品は、小説というのはそういうものだと、村上龍本人がデビュー作「 限りなく透明に近いブルー」を書いて気づいたことに根ざした、そんなある種の実験だったんじゃないか。

あとがきにある「 小説は麻薬そっくりだ」の文言は、「 俺が生きてる時は注射針が腕に刺さっているときだけだ。残りは全く死んでいる。残りは注射器の中に入れる白い粉を得るために使うんだ」という昔の友達の発言からきたものだけど、ただそれだけの意味じゃないような気もする。小説を書いている最中の興奮は麻薬に近いんだ、とか。うーん、どっちもやったことないから、どっちがすごいのか釈然としない。

時計回りの

グラウンドがきのうの雨で濡れていること、クラスメイトが大声で、こんなに晴れてんのにと、嘆く。窓外、たしかに運動場は水たまりが世界地図みたいにたくさんできているのに、空にはきれいな入道雲が出ていて雨の気配なんて微塵もしなかった。明日も雨らしいよと誰かが言う。もう六月だということをぼくは今更のように意外に思う。というかもうテスト二週間前だ。まー、もうテスト対策なんてのはやめたからそんなに気にもならないけど。

センター試験まであと何日か、右斜め前の席で、計算しているひとがいる。大学受験が近づく、そのことを思うたびに、沸きあがる感情は不安とかやる気とかじゃなくて、漠然とした焦りだ。あとはこれまでの人生についてのいろんな後悔。もっと勉強しときゃよかった、もっといい高校入っときゃよかった、はじめ、さっさと死んどきゃよかった、など。もろもろ。ぼくが見ているちょうどそのときに、黒板のうえの壁に立てかけられた十二時〇〇分を示した。長針と短針が重なって、その間に挟まっていた嚢がぷちっと潰れてなかの液体がこぼれ出す、それをひっかぶる、みたいにまた新品の後悔がぼくに染みつく。こういう言いまわしを無限に量産しているとあと一五分の授業は当然のよーに終った。

 

「 こないださあ、」

昼休み、ご飯を食べおえて本を読んでいたぼくに、隣の席の彼は、どこで習得できるのそれ、と不思議に思えるほど爽やかな笑みで話しはじめた。部活のごたごた、部員だけじゃなくて顧問の先生も巻きこんだおおきな対立。おなじ学校のなか、けど絶対に踏みこめない領域のひとたちのドラマ。ぼくが持たない美しさの、代償としての苦しみについて。たいして彼がなんでぼくにそんなことを話したか。ぼくなんかに相談がしたかったわけではないだろう。たぶん、愚痴だ。ただの世間話だとは考えたくなかった。彼にとってそういうことがただの日常の一コマでしかないなんてことは。同い年の彼がそんな苦しみに慣れきっているんなら、話を聞いているだけでこんなにも悲しんでしまう、ぼくの精神はなんだ。

そんなことあるんだ、たいへんだねと、相手に合わせるように精一杯の笑みをつくりながら、できれば相手に不快感を与えないよう、極力言葉少なな相槌を打った。ひとしきり相手が喋りたおしたところで会話は終って、彼はなんでもない顔で机の上の参考書に視線を落とした、ぼくは頬杖をついてなんともなしに天井の角をながめた。教室の壁は自分の部屋の壁よりいくぶんか黄いろい、黄ばんでいるんだろーか。ながい時間がこの校舎にも流れてきたんだし。

ぼくにも十七年、きちんと流れてきたはずなのになと、伸びた左の指さきの爪をながめた。体は確かに変化していて、まわりの環境も変わっていて。なのにこころがまるで前進していないんだ。ぼくの焦燥がきらうのは学校でも世界でもこの街でもない、自分自身、そいつはここから抜けだそうとしている。無理なのにな。ぼくは呼吸をするように、ぼく自身の悩みの矮小さを、つづけてクラスメイトを呪った。呪い殺してやる、一人残らず。その気骨をうまいこと闘争心に変換できるんならとりあえず、浪人はしないで済む、というような気がしているけど。でも闘争心なんてスマブラ以外で沸いたことねーな。やっぱりむりかなー。

 

家に帰って、伸びた爪はとりあえず切った。あと暇つぶしに計算してみたら、センター試験まではあと二百七日、だそうだ。明日は雨が降ったら、学校を休もうと思う。

昼休みに寝た話をします

ぼくの昼休みの過ごしかたは、図書館に行って読書をする、自習室に行って宿題をすます、イヤフォンをはめて教室で寝る、の大きくみっつに分けられる。どの選択肢にも自分以外の人間が登場しないのはご愛嬌だ。

で。今日の昼休みは、読みかけの本を忘れて、出すつもりの宿題もなかったから消去法で教室に残った。こないだ五千円弱で買った初代iPodのパチモン( 中国製)を起動してランダム再生ボタンを押せば、同級生の話声は「 そういやこんな曲入れてたな」的な印象のうっすい曲に上書きされて、そんでもってやっとぼくは安心して眠れるようになる。

数分経つと、枕にした腕の血流がちょっとずつ滞る、あの感覚が来る。ぴりぴり、ぴりぴりと、どんどん強くなって、限界まで達したところで今度は腕の感覚といっしょにすこしずつ消えていく、それと同期してぼくは自分がいまどこでどういう経緯で眠っているのかを忘れ、体全体が心臓とおなじリズムで脈動しはじめたかと思うとこんどは浮遊感につつまれて、考えごとがちょっとずつ整合性を失っていく、それを感じている間に眠りにつく。

寝てるのか寝てないのか判断のつかないところで、目が覚めたときぼく以外の世界のすべての時間が止まっていればいいと、半分夢をみるように考える。起きてみたらこの世界がまるっきり、ぴたっと静止していたらと。隣の席の生徒が気にする前髪はもう彼の目論み通りにはセットされず、雑に消されて白い竜巻みたいな模様になっている黒板はそのまま、旧校舎の屋根にとまるからすはもうどのゴミ捨て場も狙うことはなく、教室の隅っこで笑い合う男子バレーボール部員の会話は黒ギャルAVの話題から進まないし、夏がテーマのフリー素材じみてイラつく入道雲もそのまま形をとどめてくれたらいい。演劇部の女子部員の下品な笑い声も、怒っているのかそうでないのか釈然としない声音で生徒を呼びつける教師の校内放送も、窓外の国道を通る自動車のエンジンの唸りもそこにはないからイヤフォンだってもう必要ない。ぼくがその沈黙のさなかで目をさます。たぶん口をぽかんとあけて、口腔が乾いていくのを感じながら現状把握に努める。久々に自分の息の音を聞いて驚いてみたり、なんでもないふうを装ってまた寝たり、勉強をはじめてみたり。そんでもたぶんしばらくしたらなにか耐えきれなくなる。ヤケクソになって机のうえの消しゴムを投げる。でもそれも落下するまえに空中で、放物線を三分の二も描ききる前に静止する、ぼくはそれをつかんでみようと席を立つ。消しゴムはたぶん、ぼくが触れば思い出したように床にぼとりと落ちる。そのとき、きっとぼくの耳は、その音さえもうるさく感じるようになっている。

……と、いうふうだったらいいなーと思いながら、でも実際はいつも通りに、せっかく五限目始業のチャイムの音を爆音でかき消してもクラスメイトがいっせいに椅子をひいて立ち上がるのが床から伝わって目が覚める。ほかのクラスメイト全員といっしょに「 よんしゃんさしーす……」と八割がた吐息みたいな声とともに背骨をまげて座りなおす羽目になってその間にもそこここに時間は流れつづけ、汚かった黒板も日直の手によってずいぶんきれいになっていたりする。ぼくは前の席のクラスメイトにぎりぎり聞こえるかもしれないくらいの音量で死にてえ、と漏らしてまた机に突っぷす。ぼくの昼休みなんてのはまーだいたいこんな感じで、うえの必死こいた言いまわしはほんとうに昼休みにかんがえて授業中に整理したもんだったりする。