咀嚼

先日、歯医者に行って虫歯を直してきた。計三本。ついでに歯石も取ってもらい、磨き方が雑だという注意もいただいた。ぼくはむかしっから歯について無頓着だ。適当な歯ブラシと適当な歯磨き粉で適当に磨いている。

毎日使うものなんですから、って先生は言ったけど、歯をものとして見るなら、悪いのはぼくじゃなくて毎日使うものなのに手入れによって使えなくなってしかも買い替えのきかない歯のほうじゃないのかとか、屁理屈をこねまわすだけこねまわして、もちろん、口には出さなかった。

出そうにも、口にドリルが突っ込まれてしまったし。

何年か、結構長い間、歯医者には検診にすら行ってなかったから、虫歯治療のプロセスには改めて驚かされた。駄目になった部位を取り除いて人工の素材と入れ替えるって、それだけひっこ抜いて考えると人工臓器みたいな技術となんら変わらないように思える、けっこう重大な施術だなって。

五千円ちょいの手術は、ほんとうにちょっとした痛みとともに二十分足らずであっけなく終わって、ぼくのからだは一部が人工のものと置き換わってしまったけれど、たいして違和感なんかはなかった。せいぜい、下で虫歯だったところをさわったら他よりすこしざらざらしてるとか、それくらい。自分の肉体、なんて意外と取るにたらない容器程度のものなのかもしれない、なんて思ったりした。

 

         ***

 

ネットで本やアニメの感想を長々と書くのを、ちょっとやめてみることにした。読書メーターの感想はみじかく、書くか書かないかもまちまちにして、ブログは完全に日記として使って、Twitterでももちろん控えて(まあリプライで話ふられたら答えるのは答えるだろうけど)、って、とりあえず半年くらい続けてみようって。

理由はいろいろ。テンションの高い自分の文章を後で見返すのがやだとか、感想をながく書いた作品ばっかり自分のなかで印象が陳腐になってしまっている気がするとか、ことばで言い切ってしまうとほかのひとの感想を受容しづらくなってしまうんじゃないかとか……。

いちばん大きいのはたぶん、「自分の本来の感想が、書くことで捻じ曲がってしまってるんじゃないか」って疑念だと思う。インターネット上のほかのひとの感想とか、りっぱな感想にするぞ、一貫性のある考察にするぞ、なんて自分自身の作為によって、文章を書いている途中でわざと自分の思ってないようなことを書いてみたり、自分の本来の感想を誇張したり真逆にしたり、なんてことを、半分無意識でやってしまってはいないか、怖くなってしまった。

ぼくは前にも書いたようにものに対して強い感情を抱くのが苦手で、それはもちろん小説だとかアニメだとか映画だとかに対しても例外じゃない。だから感受性が貧弱で、簡単に外部的な要因に捻じ曲げられてしまう。

それを防ぐために、まずアウトプットをやめて、感想を自分のなかで曖昧なまま守っておく、というのはそれなりに有効な手段だと思った。

抱いた感想が恥ずかしくったって、まわりから見れば間違えていたって、文章にして外に出さなければ気にしなくていい。まずはその気にしない態度を内側から慣れていって、いつかそれが固まって来たら、また文章にしたり、口に出したりしてみるのもいいと思う。

 

たとえぼくの感受性が傍から見れば虫歯みたいに腐りきった、痛いものだったとしても、そこだけ削り取って歯剤で埋めて、なんて芸当はできないし、しちゃいけない。必要なのは黒ずんだ醜い感受性でも堂々と見せつけて、白い歯に怯まないようにすることだ。

それができるようになるまでは、口は閉じていよう。と思う。

「シン・ゴジラ」を観た(メモ)

すごい映画だった。ほんとうにすごい。すごすぎてみてる間「すごい」ってことばすら浮かんでこなかった。ただ放心状態で「シンゴジラ……」って思ってた。

未だに考えがまとまってなくてきちんとした記事には至りそうにないんだけど、かといってツイッターのほうに書き散らせばひどいネタバレになるなあと思ったので、雑然としたメモでいいからと、残しておきます。三回目見たらもーちょっとちゃんとまとめる。と思う。

当然だけどネタバレあります。

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想定外の連続

ゴジラを観るのははじめてだった。それどころか怪獣映画を観るのがはじめてだった。庵野秀明の作品を観るのも。

だからこの作品が、これまでのゴジラや、庵野作品に比べてどうとか、そういう話はぜんぜんできないし、作品内に散りばめられた過去作へのオマージュ、リスペクト、みたいな要素はまるで拾えない。どんな作品なのかな? って予想もできなかった。

シン・ゴジラがまずすごいのは、そんな状態のぼくですら「ええ!?」ってなっちゃうくらい、既存のイメージをとにかくぶち壊しにかかってくることだと思う。会議シーンの多さ、物語のスピード、最初に出てくるシンゴジラ第二形態の外見と、まるで最終的な着地点が予想できないストーリー展開まで驚かされる要素ばっかり。「こうなるのかな」がまるで通用しないから観てる間ずーっと固唾飲みっぱなしの体に力入りっぱなしだった。始終宙ぶらりん。そりゃパンフに「ネタバレ注意」とか書くわけだ。

 

莫大な情報量

そんなふうに前情報がぜんぜん役に立たない状況だから映画のなかの情報だけに頼らざるを得ないんだけど、その量がやばい。一回で処理しきれない。こんなに多量の情報を二時間ぶっ通しで脳みそにぶち込まれるって体験は貴重。それだけでチケット代のもとが取れる。

物語じたいそもそも情報の多いつくりでその上終始展開がトップスピードだから、無意識的に観てるだけでもすごい量が飛びこんでくるし、ゴジラの設定考証、政界や官僚や自衛隊への取材といった、ひとつひとつ途轍もない労力が注がれたディテールのこまやかさと、それが何故か観ていてある程度わかるようになってるの(これが庵野秀明の作風なんだろうか?)のおかげで、意識的に拾おうとしたらいくらでも拾えてしまう。

もうなんていうか規模がけた違いなんだ、シン・ゴジラは。破壊的にでかい。手が付けられない。怪獣映画は怪獣映画でも、怪獣(の)映画である以上に、怪獣(みたいな)映画、だと思った。

 

「現実対虚構」

そんなふうに、綿密な取材に裏打ちされ、凄まじい量の情報によって組み上げられた強固な舞台のなかで、今作のゴジラは、徹底して超越的で現実離れした、虚構の象徴として描かれている。フォルムは異様で、人間をまるで歯牙にもかけていないような行動には生きものっぽさがなく、放射熱線を吐くシーンは神秘的。鳴き声、足踏みの音、自衛隊や米軍の兵器の着弾音、といったゴジラにまつわる効果音だけ、やけに古くさいものが使われているのもたぶんそのためだと思う。

そのゴジラと、リアリティあふれる日本との対決。それがキャッチコピーにある「現実対虚構」なんだろうけど、ぼくにはどうも、この映画で取っ組み合う「虚構」と「現実」とは、それだけのように思えないなあと、こっからは完璧な邪推だけど。

たとえば、理想主義的な矢口蘭堂と現実主義的な赤坂秀樹との対照的な配置はわかりやすい例だろう。メタフィクション的な段階では、3.11を想起させるシーンのかずかずはぼくらの現実とシン・ゴジラという虚構との境界線をあいまいにするし、エヴァンゲリオンのBGMをテーマにひっさげてゴジラに立ちむかう巨大不明生物災害対策本部には、現実世界でゴジラシリーズの完全新作という巨大なプレッシャーを前にしたこの作品の制作陣のすがたが重なる。

また、徐々に切羽詰っていく政治家、避難を余儀なくされる一般市民、日本全体で、ゴジラの存在という信じられない状況が、受け止めざるを得ない現実へと変わっていく、その過程もまた虚構と現実とのせめぎ合いと言っていい。

主人公である矢口蘭堂のなかでの、その虚構から現実への書きかわりを描きかたはとくにわかりやすい。ネットやテレビ越しにしか観ていなかったゴジラの姿を、二度目の上陸のとき実際に眼にし、「あれがゴジラか」とつぶやく。その直後、同僚や上司を亡くすことによりゴジラの脅威を実感せざるを得なくなり、そして最後のヤシオリ作戦では、自ら危険を推して最前線に立ち、その遂行を見届ける。

その過程がきっちり描かれていたからこそ、あのシーンで何度も何度も映された、矢口の眼のカットには、俳優の演技だけでは説明がつかないくらいの説得力、切実さがあった。そのすべてを虚構として客観的に観ている、ぼく自身にまで挑みかかってくるように感じた。どうしてこんな異常事態を、おまえはこんなに暢気に観ていられるんだと、責め立てられているような。その感覚は、ぼくが3.11の報道をテレビで見ながら、感じていたものに限りなく近かった。

観たひとの現実そのものに、シン・ゴジラという虚構が挑みかかる。それこそが、「現実対虚構」の戦いなんじゃないか。だとしたら最後に記念碑のように東京都心で凍りつくゴジラは、これからこの世に残り続ける、この作品そのものを表しているのかもしれない。

 

思ったよりわりとちゃんと書けたので満足。ほんとすごい作品でした。IMAXとふつうのと、両方観たけどIMAXのほうが圧倒的に良いです。没入感がぜんぜん違うので、まだのかたは是非。放射熱線撃つとことかもうおしっこちびりかけましたよ。映像もさることながらBGMの響きとSEの説得力がケタ違いです。

ねむすぎる

世界史の予習。たいくつだ。ぼくは趣味の傾向をかんがみるとふしぎなくらい歴史に興味がない。歴史ってのをどう楽しめばいいのかいまいち、わからない。知的好奇心とかもあんまりないし。自己実現がないから知ろうともしない。

「うそみたいな歴史的事実!」みたいなのをおもしろがる気持ち、あれがいちばんわからない。物語みたいだけど、現実なんだ、というのがいいのかな。でもぼくは現実味をもとめるなら現実に、物語性をもとめるなら物語にふれたいと思う。その中間になにかを置こうという気持ちが、いまいち。

物語ってのは実際に起らないからぼくの目に綺麗に映る。いい話だね、でもこんなこと、現実にはないんだよね。そういう悲しさが物語のうつくしさだと思う。それが、過去にあった事実、ってものには欠けてる。物語を文字や映像におこすこともそのうつくしさをかなり損ねるものだ。現実世界にはっきりとしたかたちで現れた、って時点でそれは部分的に「起って」しまっている。目を閉じてから眠るまでのあいだにどんどん破綻していく思考とか空想のなかでたどる知らない街の道すじ、あとはそれこそ、夢。そういうのがいちばん綺麗な物語だ。もしぼくがめちゃくちゃ素晴らしい物語を思いついてしまったら、がんばってがんばってそれを何かのかたちにおこすのを堪えて、自分のなかで忘れていくものにしたい。消えていかなきゃ、汚い。

そういうことを考えてると、未来を描いたSFってのはいいなあ、と思う。書いた時は真実だって思ってたけどうそになっちゃった未来。これからうそになっていくだろう未来。書きながらも、これはないな、と思いながらつくる未来。残酷だ、どうしようもないくらい残酷でうつくしい。べつに未来の話じゃなくてもいい、とにかくそういう残酷なうつくしさっていうのがSFのよさで、ぼくにとっての第一条件かな、と思う。

話が逸れまくった。世界史がめんどくさい。あと七十ページある、しかも次々前やったことは忘れていく。誰か助けてほしい。汚くってもいい、せっかく暗記したものは消えていかないでほしいよ、センター試験まででいいから。

展望

こないだの三者面談。志望校を決定した理由に、雰囲気、と答えたら、もうちょっと将来のことを考えてみたらと、軽く呆れた顔で担任の先生がいった。

雰囲気じゃだめですか、と聞くと、いやだめじゃないけど、さすがになにも考えなさ過ぎじゃないかな、と。母親はびみょうな顔で押し黙っている。大学出たあとどうするかー、とか、自分になにが向いてるかー、とか、考える? って聞かれたので、考えませんね、考えすぎちゃうんで考えないようにしてます、と答えた。先生はまたちょっと笑って、次の話題に移った。

提出物が出てない説教。すなおに謝った。

 

大学受験の天王山と呼ばれる夏休みのスタートをきちんとできるよう、とりあえず勉強場所を変えてみる。ぼくと母の家から父親とその恋人の家族の家へ、一週間ほど。

実際にするしないにかかわらず勉強しようと思えばどうしても家にいなければならず、そうするとだんだん気分が閉塞して堕落なものに惹かれやすくなってしまうので、それを防ぐためにもいちど周囲の環境を大きく変えてみるというのは大切なことだと思ったからだ。あとこっちには漫画やゲームがないので単純に勉強に意識が向きやすいということもある。

 

移動はきのうの夕方だった。参考書、荷物、それから一週間分の文庫本を詰めた荷物はおそろしく重く、ふだんクリアファイルと筆箱と本一冊くらいしか入っていない鞄で通学している身には、それを携えての一時間の電車での移動は厳しい、それだけで体力をつかった。きのうかなり気合を入れたのに二時間くらいしかできなかったのはそういうことだ。と、思いたい。

着いたら、空き部屋を割り当てられた。きのう無理やり片付けたのだという父。なるほど、二段ベッドの二段目がひどい有様だった。参考書は窓際の棚の上、着替えは机の下の鞄に詰めてと、置き場をきめて荷ほどきをする。やったことないけど居候みたいで、ちょっとわくわくする。

 

居心地は上々。母親の飯が食べられないのは残念だけどこっちでもそこそこのものはもらえるし、家の人は受験生ってことでむしろ過度すぎるくらい気を使ってくれるし、あとなんてったってクーラーがある。

クーラー。ぼくと母のふだん住む家にはないので、自分は暑い寒いには強いって思っていたけど、そこにあってその操作が自分に委ねられてるとやっぱりつけてしまうから、案外そうでもないのかもしれない。なんとなくちょっと暑い、を、明らかに涼しい、にしたくなってしまう衝動。クーラーの魔力は恐ろしい、ぼくみたいのがいるから地球温暖化なんてのが起こるんだろう。って思いながらまた設定温度を下げちゃうんだけど。

 

で、勉強。進んでない。

twitterのようすをみていただければわかると思う、めちゃくちゃネットサーフィンしてる。なんでかっていうと机の上に使い放題のPCがあるからだ。これがやばい。ほんとうにやばい。椅子に座るとPCひらいちゃう。しかも部屋超涼しい。エアコンとPC、人間の堕落癖を現出させるゴールデンコンビだ。とりあえずPCから離れようとベッドに寝転がると寝る、確実に寝る。逃げ場がない。やっぱり娯楽の有無はぼくの勉強量と全然関係ないんだなと改めて痛感する。

環境は何も悪くない。ぜんぶぼくが悪い。

そのことに気づくのすら、十七年かかってるのに、自分がどう生きるべきかなんて、なー。

Don't Summer

一昨日。三時間睡眠のいちばんハッキリしない頭で自転車を漕ぎ、終業式の小一時間を爆睡、帰りに友人の家でスマブラして。帰り道を自転車でたどりながら、そういえばそろそろ八月だな、っていうか今日から夏休みだな、って、五時を過ぎてもまだ日の沈んでないのをみて思いだした。

信じられなかった、自分が「 信じられない」なんて心持もなく自然にそれを受けいれられていること。夏休みが来たね、そうだね。それだけで、なんの感慨も、嫌悪もかかえていない自分がふしぎだった。

むぎーわらー、ぼーしぃはー、ってペダル漕ぎながらうたう吉田拓郎の名曲もまるで効力はなくて、けっきょく無感動のまま家に着いてしまった。ぼくが夏に向ける感情は、こんなに淡白だったろうか。違う、はずなんだけど。関係ないけどあの曲が子どもじゃなくて夏休みを失ってしまった大人のためのうたなんだって気づいたのはわりと最近だ。

 

夏はにがて。とくにあと一週間で来る八月。その理由はことばにしづらいけど、まー確実に考えられるのは、暑い、さわがしい、ってとこだろう。街中にエネルギーが満ちていて、それがぼくの脳みそを情報で飽和状態にする。ぼんやりした頭は現実を直視しない、未来に夢をみない、ただ過去の八月においてきた後悔のかずかずを漠然と引っぱりだすだけ。そのせいで内省的にもなれない。終始感情がざわざわして、ただ家にいるだけでも疲れてくる。しかたなく外に出れば、慣れない滑稽なダンスをひたすら踊らされているみたいな気恥ずかしさと徒労感がずっと続く。

でもだからって嫌いになるにはやっぱりあまりに魅力的すぎる。にがてだなんて思いたくない、そういうふうに思わせてしまううつくしさというのが夏にはどうしてもある。突きぬけるように爽快で、わくわくして、しらない駅の改札を抜けたみたいな気分がずーっと続く。こんな幸福を自分が享受しちゃっていいのかな、って浮足立ってしまうくらい( そこもまた苦手なんだけど)。

 

とにかくぼくが夏に、八月に向ける感情はただものじゃなく複雑だった。はじまればわくわくとうんざりとがないまぜになって襲ってきて、終わればせいせいした気もちの内側にそれを惜しむこころが潜んでいた。八月より好きな月はある、八月より嫌いな月もあるけど、好きと嫌いとそのどっちにも属さない感情までひっくるめた総量をくらべれば、ぼくにとって八月以上に思い入れのある月なんてない。どうがんばっても飼い慣らせない八月は、たしかに怪物だった。

それがいま、どうしてか一切の存在感もなく、あと一週間のところまで近づいてきている。ぼくの変化なのか、ぼくをとりまく環境の変化なのか、わからないけれど、もしそれが大学受験なんてくだらないものがもたらす不安のせいなら、ぼくはまた自分のことをきらいになってしまうなあ。

技法

昨晩えらく陰鬱で混乱した記事を書いてしまったので今日は混乱しながらでも比較的ゆかいなことをかいて記事にしようと思う。

ひどく弱っちいぼくの自意識でものごとを左右させるのはひどくむつかしく、逆に自意識のほうが左右されてしまうのが常だ。自分で書くブログの記事しかり。

 

きのうみたいにひどく暗い気もちになればそりゃ、「 自殺」の二文字が頭に浮かばないでもないんだけど。どうせ、まず死んだりしない。

理由は、死ぬとどんなかんじとか、死んだあとどうなるとか、そもそもどうやって死ぬとか、まるでわかってないからだ。そんなあやふやなものに縋るくらいなら自意識の問題はおろか生活苦とか病苦とかに耐えるほうがマシかなと、いまは思えてる。死ぬのはたぶん、そこそこ損だ。

ようは損得計算ができてる間はぼくは自殺とかしないんだろう。強烈な感情のまえに正気を失ってない間は。たぶんそういうこともない、死にたいとかこんな自分やだとか、そんなに強く思えないし。

自己嫌悪まき散らしながらそれでも死なないし改善する気もないのはやっぱりそこまでいまの自分が嫌いじゃないから。百点満点で好きが二の嫌いが四くらいの感じ。端的に言ってどーでもいいんだろう、って、書きおわってから気づいたけどこれ完全にうそだ。好き九十六の嫌い百とかだ、たぶん。自分のことだけはどーでもいいと思えないのがぼくか。いやだなあ、いやだなあ、あ、また暗くなってるな。話題変えよう。

 

勉強がいやすぎて暇つぶしに気になった言葉を適当に調べまくっていたら、ぼくのいちばん好きな詩人、田村隆一がぼくの生まれた年に死んでいることが判明した。

一九九八年って、どんな年だったんだろう。母のおなかのなかで、生後一二ヶ月のまだ開かない眼で、ぼくがなにか感じていたか。それをひとかけも覚えていない違和感は、薄気味わるいけど、どこか安心するものだ。ぼくの生きた十八年間のあいだにひとつでもはっきりした断絶があるなら、やっぱりぼくはどこかでちゃんと変わっているってことなんだろう。それがいいかわるいかは、考えないでおく。今はたぶんそうするべきなんだ。

 

田村隆一の詩は、読んでいて表層にあらわれるうつくしさと根底に住まう苛烈さのバランスが、ぼくのあこがれるものにかなり近いと思う。稲垣足穂梶井基次郎とはまた、違ったかたちで。生まれかわるなら、「 言葉のない世界」のなかの一節がいい。

そういえば田村隆一、かなしいものをうたうときの不思議なポップさは、people in the boxの歌詞にも近いものが見えると思う。「 ニムロッド」に「 立棺」の影をみるのは邪推か。うん、邪推だな。

 

PITBといえば。四日前通販で買ったCalmly SocietyとLost Tapesが、現在おそらく運ばれている最中だ。早く届けばいい、というかなんで一日二日で届かないんだ、といらいらしてしまうのはAmazonのスピードに慣れすぎたからか。

よくない傾向だろうな。そういうの。最近は本屋やCD屋でも「 これAmazonにぜったいもっと安い中古の、あるよな……」と思って買うのやめてしまったり。生活の良しあしに直結してこない金なんだから、衝動的に使ってしまっていいはずなんだけど。そうしたほうがすっきりするし。お金を有効に使おうとする姿勢なんてのはどうせ自分で稼ぎはじめてからしか確立されないものなんだろーし。

 

最近また小説を書いてる。文芸部で出すやつだからネットのほうに公開するかどうかは微妙だけど。テーマは部員全員共通で、「 神」。あいてて。あいててて。

物語要素はまえのやつよりちょっと強くした。いちおう、向上心だ。

ブログにしろ小説にしろ、文章を書いていると数学の問題を解いているときと似たような感覚に陥る。考えを整理しようととにかく書きつらねてみるけどむしろそのことによって問題は前よりむしろ複雑になっていて、頭の混乱度合はさらに増したように思われるんだ。しかも数学の問題ならいちおう答えっていうのがあるのに、ぼくの考える問題には模範解答どころかどういう答えにたどり着くべきなのかも、どういうものが答えと呼べるのかも示されていないからとにかく過酷だ。

ただ、数学の問題だと一個プラスとマイナス間違えるだけでそのあとぜんぶオジャンだけど、文章を書くときは間違いや破綻はむしろ味につながったりする。だからまー、すぐ慌ててポカミスをやらかすぼくは文章を書くほうが好きなのかなと思う。センター数学でも間違いを「 味」として加点してほしい。

あー、でもこーいうの実際に莫大な量の文章書いてそれでメシ食ってるひとが言わないと説得力なくてダサいな……。もっと書かなくちゃな。ぼくが大文豪になったときのために上のハズい文言は残しとくべきだと、思いながら句点をうつのである。

くだ

中学の頃からの友達とひさびさに会って、出かけ先でいろいろ話した。

あっちには夢があって、そのためにいろんな苦労をして、学校もやめたりした。苦手な長期的な計画とか、同年代のまわりにいない孤独とも、がんばって戦いながらちょっとずつ自分の場所を作ってるらしい。

そういうのを聞いてるとどうしようもなくみじめになってくる。ぼくには夢がない。目標もない。そこまでなにかを求める気もちがない。たいした苦労もしてないし友人とか知り合いもいて、でも彼らが用意してくれるすてきな場所のかずかずのどれにもぼくは身を預けられない、苦労をしてないって負い目とか、ここにいちゃだめだって焦燥とか、理由はいろいろ。

計画性はないけど地に足つけてしっかり歩いてる友人の熱っぽい話に、計画たてる余地もないくらい宙ぶらりんのぼくがあいまいな相槌をうつ。どうすればこいつみたいになれたかとずっと考えていた。答えは出なかった。

友人は用事があるからってちょっと急いで帰った。ぼくも勉強しなきゃいけないって、思ってるはずなんだけど、本屋に寄り道した。べつに何も買わなかった。そんなに読みたい本もなかった。ミスタードーナツがちょっと遠いので、代わりにコンビニでドーナツ買って食べた。そんなに違いもないように思った。

 

むかしからぼくは怠けっぽい。だいたい途中でやめる。ピアノ。水泳。書道。演劇。習い事は長く続かない。なにかしたいってたぶんあんまり思わない。なんかのきっかけで始めた、その惰性で続けてその力が弱まったら終り。なにか技能を身につけたいとかなにか知りたいとかもたぶんあんまり思ってない。自分がどんな人間でもかまわない。恥ずかしいのは嫌だからみすぼらしくないように強がることだけはする。最低限。他人にどう見られるか気にするのも、他人に嫌われたりしたらめんどうだからって気もしてる。

それに、これが好き、これが得意って誇れるものもない。読書、アニメ、ゲーム、あげようと思ったらあげられるけど。暇つぶしだ、全部。ほかのことでもかまわなかった。ただ比較的そういう趣味のほうが体力使わずに済んで楽だからって選んだ。不誠実。賞賛すべきいろんな芸術作品を片端からただの時間つぶしに消費する。楽しかろうがつまらなかろうがそんなのはきっと底の底ではどうでもいい。ツイッターに書き散らかす感想なんてのも、暇つぶしの延長だ。すてきな作品に触れてなにか感じた、ふり。だれかの考えに共感した、ふり。作品に向ける感情が足りてないから深く知ろうともしないしなんか網羅しようともしない。金かかるし、金ないと面倒だし。

なにか欲しいって思うことも少なかったと思う。例えばそれこそ居場所とか。欲しいなって思うことはあるんだけど必要とされる努力の量を考えるとべつにいいかって思う。そんなに欲しくもないし。そう思って途中でやめる。何になりたいとかもおなじだ。

怠惰の原因はたぶん根本的な感情の欠如。なにかを好きとか嫌いとかあんまり思えない。好きなものを引き寄せようともしないし嫌いなものを遠ざけようともしない。だから苦労が要らない。大学は行けるとこでいいから、勉強は適当でいい。人間関係は最低限でいいから、目立たなくていい。人生は、人生は、息できてたらいいから。その場合どうしたらいいんだろう。っていうか、息も、どうだろう。

でもなにもかもがぼくに無反応で通りすぎていくのだけはどうしても耐えられない。だからこんな散らかった文章をネット上に公開して「 共感」をもとめたりして寂しさを紛らわす。でもそれだって現実世界で仲間を作って話を聞いてもらうっていうようなことにくらべたらひどく小さなことだ、寂しさを紛らわせたいって気もちすら、ぼくには。

怠惰だ。なんだそれ。なにに感情を向けもしないでただ飯食って寝て。なんのために生きてるのかなんて考えたこともない、めんどくさいし。死ぬのも同じ。

きっと生きてるとも死んでるとも感じれてない。生きがいとかたぶんない。きっかけがあって生まれて、惰性で生きつづけて、それが弱まったらたぶん生きるのおわり。習い事とおんなじだ。そんなの人間の生きかたじゃない、機械かなんかみたいだ。人間性が足りてない。何にもする気ない。どうなる気もない、極端はたいへんそうだし平凡はめんどくさい。でもいっちょまえにそーいう空虚を嘆くことだけはする。風が通ったらひゅうひゅう鳴くパイプかなんかに似てる。それで、それでなにがしたい。わからない。こんな文章書く意味も。でも誰に読まれないのはすこしだけ寂しい、気がする。

気、だけが。