冬/街/これからの生活

冬が好きだ。十二月のつめたい空気と明瞭な陽の光のなかでは、自分自身の輪郭も、いいかげんみすぼらしくなってきたコンバースの汚れ、ポケットでくしゃくしゃになったレシートの感触、ベンチに座る女の子の烏色のコートのほつれ、バス通りに流れ込む車のエンジン音も、なにもかもがはっきり、きっぱりしている。ストーブの効いた四号車から駅のホームへ、一歩出て空気のつめたさに驚くとき、ぼくは冬の厳しさと対面している。そいつは一ミリの妥協もなく、世界を冷徹に割りきり、ぼくの眠気を切りきざむ。

冬が好きだ。毎日毎日なにかを妥協してなあなあで生き延びている、ぼくはその美しさに憧れずにはいられない。たまにはコートのポケットから手を出して歩いてみようかと思ったけど、霜焼けになるのが怖くてやめた。マフラーをきつく巻きなおして、帰り道をたどる。

 

からまったイヤフォンのコードをほどきながら、信号が変わるのを待っていた。電柱も街路樹も建物もみんな、澄んだ空に挑んで負けてみじめったらしくそこらに突っ立っている。からっぽの空はなんにもないところに便宜上青い色がついているみたいで、排水溝で腐った落ち葉は茶色くて、犬の散歩をするおばさんの着るウィンドブレイカーはドぎつい蛍光色。雪の降らない地域に住んでいると、冬のイメージってだいたいこういうものになる。

この交差点からなら、給水塔が三本、一気に見渡せる。そのこと気づいたのはほんとうに今月に入ってからのことだ。そのうち一本についてはそもそも存在していることさえ知らなかった。

小学三年生から住んでいるっていうのに、ぼくがこの街についてわかっていることはあまりにも少ない。たとえば、未だに一丁目公園の場所が分からない。だいたいどのあたりか、は何となくわかるんだけど。顔は出てくるのに名前が出てこない、あいつの家から近いのは知ってる。

 

コードをほどき終わってから五秒くらいで信号は青に変わる。横断歩道を渡りながら、三者面談で先生が言った、まあまず浪人はないでしょう、って台詞を思い出していた。どこの大学に行くにしろ、春からは今住んでいる家を離れる。獲らぬ狸の皮算用だと自分でも呆れながら、これから暮らす知らない街や、独りぐらしの大変さに思いを巡らせてみる。あとぼくのいなくなった家と、母親の独り暮らしのことも。

まあどこに行くにしたって、たぶんだいたい同じなんだと思う。すばらしいものもくだらないものも、なんだって生活に組みこんでしまえば大したことはなかった。自分の身体と一緒だと思う。愛着は生まれても感動はしない。美しいとも醜いともいまいち思いづらいし、美しいとか醜いとか、感じたところでそれは一時的な感想でしかない。ただ、ぼくの生活だというだけだ。人間、いちいち身の回りのことに心を動かしたりしない。そんなことしていたら疲れるに決まっているからだ。

どこにどんなふうに住むにしたって、とにかくぼくはそこで生活する。つまらない大学にだってそれなりの楽しみはある。すばらしい大学だとしても一週間で飽きる。暑い街なら冬が楽だし、寒い街なら夏が楽だ。独り暮らしはたいへんかもしれないけどどうせそのうち慣れる。寂しいのはいつものことだ。ぼくのことだからうまくはやれないだろうけど、まあ、それなりにやれるだろう。とにかく、今から心配するほどじゃない。今日はとりあえず今日すべきことをこなしたほうがいい。勉強とか。勉強なあ……。

バースデイ

誕生日だ。18歳になった。でもきのうの風邪がまだ続いている。熱は引いたけどなんとなくだるい、くらいの中途半端な体調で、自分の体ながらなんだか居心地がよくない。べつにパーティがあるわけでもなし、問題はないんだけど、ちょっと幸先わるい。

学校を休んで、母親がぼくの弁当のために炊いた米を雑炊にして食べて、またちょっと寝る。そのあと起きて着替えてコーヒーを飲んだら、学校行ってもよかったんじゃないかって思うとか、きのうの反省とか、しなくてすむくらいには気分がよくなった。

PCをひらいたら、一年前の自分のツイートがtwilogのほうには残っていて、それをなんとなく読みかえしたりする。特撮やアニメの感想をたくさん書いていてふつうにオタクみたいだ。言い回しがいろいろ恥ずかしいけど、言っていることは今とそんなに変わらないような気もする。まあ成長する理由があるわけでもないし、当たり前か。

ただ、本を読むのと文章を書くのとはうまくなったと思う。一年前読書メーターに書いた本の感想は、肩ひじ張りすぎて要領を得ないし、あんまりおもしろいと思った記憶のない本をむりやり賞賛していたりする。あとこの頃は量を読まなきゃと思っていた時期だったので、たぶん文章のかたちを今ほどちゃんと見ていない。まあそのへんは単なるスタイルの違いなんだけど。

母親が出かけていったら、スピーカーで音楽を流した。いちばん最近買ったやつから順番にさかのぼってみる。そういえばPeople In The Boxを聴きはじめたのもここ数か月の話だ。

一年前の自分がどんな音楽を聴いていたのか、はっきりとは思いだせない。ハヌマーンは確実に聴いていた。17才の誕生日に「17才」を聴いてぼろぼろ泣いたのは鮮明に憶えている。きのう12時過ぎ、同じ曲を聴いた。不思議と泣かなかった。ただ、いい曲だなと思った。だいいち、なんで17才を懐かしむ曲を聴いて17才の人間が泣いていたんだろう。我ながらよくわからない。

なんかうまく文章がまとまらない。17才って年齢についてあれこれ書こうと思っていたんだけどそんな気になれない。都合のいい教訓を引き出すのもなんだかできそうにない。18歳のぼくは御託をならべるのが下手なんだろう。いいことなのか悪いことなのかはいまいちわからない。

母親から電話がかかってくる。ケーキを買った、今から帰る、コーヒーでも淹れておいて、とか。そういえば、来年からは誕生日をひとりで過ごすことだってありえるし、家族に祝ってもらえるのも今年が最後になるのかもしれない。そう思いながら、珍しく、ちゃんと時間を計ってコーヒーを淹れた。

十月

今日は体育大会だった。残念ながら晴れた。遺憾ながら健康だった。ので、行った。

すこし走って、やや跳んだ。あとはじっとして長いこと本を読んだ。盛り上がる応援席のすみっこで、ひとりだけ葬式会場にいる( 葬られる側で)みたいな顔で村上春樹を読んでいると、ひどく悲しかった。自分だけ世界からすっかり切りはなされたみたいだった。

それは錯覚だったとしても、実際、ぼくは完璧に学校世界からは切りはなされていた。体育大会のときにこんな辛気くさいツラして本なんか読んでいるやつはどうもいなさそうだった。ぼくはあきらかに浮いていた。でもべつに中学のときみたいに嬉しくなかった。中二病は治ったわけじゃない。病状が複雑化したから、この程度では満足できなくなったんだ。

そういう考えごとをしていると、BGMのポップソングとナントカ先輩を応援する甲高い絶叫とが急に不愉快に思えてきて、ぼくは本を閉じて、騒音武装をした。秋の空は高い。なんで高いんだろう。単純に、見上げる機会が多いからだと思った。秋以外の季節に、その高さを思うくらいじっと空を見上げることなんてまずない。

記念写真撮影にも苦笑いで加わった。それから帰った。バスを待つのはたるかったので、道は釈然としないけど歩いて帰った。二時間かかった。周囲に誰もいないのを確認してから、そこそこの大きさの声でハヌマーンをうたった。Fuzz or Distortion、十七歳、とかそのへん。そういえば、ぼくが十七歳でいられるのもあと三十二日しかないんだ。そう思うと足の疲れもいとおしく思えてきた。錯覚だ。

言いわけ

また小説を書いた。掌編にも満たないくらいの量だけど、時間はけっこう喰ったはず。思いついたふたつのフレーズの間を埋めて文章にする、って手法をつかってみた。それが時間喰った原因かも。でも、浮かんできたことばからイメージを膨らませてそれを入れこんで、ってプロセスはわりと性に合ってるように思う。

傍からみてどうかはわからないけど自分としては前よりよく書けたなと思えるし、積極的に自己満足として創作をやろうとしているぼくにとってそれはたいへん喜ばしいことだ。なにより楽しく書けたのがとてもよかったと思う。「 潜水」を書いてる時分はずっと「 日本語殺しておれも死ぬ」とか考えていたし。たぶん物語と、文章にいれこむこと、その順番を先に決めてから文章を書いたのが疲弊の原因だった。

書きたいことと書くべきことがすり替わる。今回はそれがなかった。文章を書くのと何を書くのか考えるのが、連動するタイミングがわりとあった。

全体像を想像して組み上げていくよりも、つねに次の一行をさがしつづけるって心持で文章を書いて、いつのまにかそれが物語になっていたりしたならそれはとても幸福なことだと思う。限界まで作為をけずって純粋に感覚を試していけるし、なんらかの結論をめざす思索の過程がきちんとのこる。また作品に真剣味が生まれる。押し殺そうとしてそれでも消えなかったような、強力で切実な作為だけがその場にとどまるからだ。

 

とか。量も質もたいしたもん書いてない人間が創作論モドキをぶちまける恥ずかしさは文芸部で重々承知なのであんまり長いこと、創作のあるべき姿、だとか書き散らかすのはやめる。そういう話をしようと思ってたわけではなかった。

ぼくはなんで小説を書きはじめたのか。書き終わってまた考える。べつに書きたいことがあるわけではないし特段だれかに評価されたいわけでもない。小説が書ける自分になりたいからだ。できたものに自分で満足したいから。

でも自分で自分を認めたいって欲求は前々からあったのに、どうして今それが立ちあがってきたのだろう。って考えるとやっぱり受験だ。点数のつく勉強以外に自分に価値があるって実感がほしかった。まったく大学受験なんてものに簡単に精神を左右されすぎだ。ほんとうに自分がない。人間性が欠けてる。

って、書いても前より落ち込んでない。なら、たぶん小説書いてる意味はそこそこあるのだ。今後も鬱屈としてきたら小説書くようにしよう。しんどくなったときの現実逃避。そんな認識でいいと思う。ぼくはいつも創作行為を畏怖しすぎる傾向があるから。書きたくて書く、それ以上の意味はなくていいんだ。創作は創作。たかが創作。

火曜日/保健室

「 保健室行ったって先生に言っといて」

「 わかった」

三限目と四限目の間、九月六日最初で最後のクラスメイトとの会話を終え、るんるん気分をひた隠しに、ふだんから辛気くさい顔をさらに辛気くさくさせて教室を出る。完璧に踵がつぶれて外目にもスリッパじみてきた上履きがリノリウムのうえ、ぺたぺた鳴る。

この学校には陰湿な暗黙のルールがいくつかあって、そのうちのひとつが、先生とすれ違ったら挨拶をしなければいけない、というの。(仮)病人であるぼくであってもそれからは逃れようがない。ふだんよりきもち低い声、最低限の口の動きで言う「 こんにちは」は自分で言ってても外国語じみて聞える。こんにちは、よりもfurniture,に近い。

保健室のドアには見慣れない看板がかかっていた。そこでは幼稚園児に相撲で負けそうな顔した灰色のゾウが、養護教諭の不在を伝え、保健室をつかう場合は職員室に行くよう促している。しんどくないただただめんどくさい体をさもしんどいかのように職員室へ引っ張っていった。顔を合わせた先生に心配してもらうたびに騙しているような気がして申し訳なくなる。と、そこではじめて実際騙していることに気づく。誰にもみえない角度でちょっと笑う。

授業を受けたこともなければ名まえも知らない先生になぜか顔と名まえが知られていて親身にされ若干ビビりながら、鍵を開けてもらって保健室へ。ぼくがベッドに入ったのを確認して、じゃあ三限終わったら来るから、と言い残して先生は去って行った。すこしして四限目始業のチャイムが鳴る。ほかの生徒がみんな集まって授業を受けているなかひとりだけ誰もいない保健室で惰眠をむさぼらんとしている、その事実がすこしぼくを昂ぶらせて、もしかしたら睡眠を多少妨げたかもしれない。

保健室の夏布団は絶妙だ。それなりにしっかりとした布団なのに暑くない。冷房と打ち消し合ってちょうどいい。それにひきかえどうかと思うのが枕だ。固い。ほぼ石。寝て起きると三分の一くらいの確率で「 うわっ、石!」ってなる。それくらい固い。石。

石に頭を乗せ、洞窟で暮らし布団なんかない状態で寝ていただろうはるかな祖先に思いを馳せたり、まわりの音の耳を澄ませたりする。エアコンの唸りとときどき近くを通る先生の足音、国道に注ぎ込まれる車のエンジン音以外にはなにも聞えてはこない。千人単位でうるさい盛りの十代が集まっているのにここまで静かなのは不思議だと、保健室に来るたびに思う。まさか私語をすれば鉄拳が飛んでくるなんてことはないだろうし、どの教室でもそれなりに喋り声が聞えているんだろうけど。それでもすこし離れてしまうとこんなにも静かだ。それはかなり変だ。

頭はぐるぐる空転していても、目を閉じていればだんだん眠気が来て、考えごとの輪郭がぼやけてくる。

寝れそう。

寝た。

チャイムでもう意識は戻っていて、それでも先生が声をかけるのを待ってからもそもそ起きてくる。大丈夫か、はい次の授業は出れます。お決まりの応酬ののちに保健室を出る。ドアを開けた先は思っていたほど暑くない。もう秋か、と情趣に浸ろうとしてみるけど、昼休みの騒がしさがそれを許しはしない。

さっきまであんなに静かだったのに、チャイムひとつでこんなにうるさくなるなんて。やっぱり学校ってのは不自然なもんだなって、溜息つきながら、それでもその不自然の中に、ぼくはのろのろ戻っていく。寝てる間に前髪が変なことになってないかが、すこしだけ気になる。

混線と五か月

首を振る扇風機と蛍光灯の青白い光、窓から吹き込む夕方の風と赤い斜陽、人造対自然、ぼくの部屋で繰り広げられる二対二のデスマッチは、扇風機のコンセントを引っこ抜いたぼくの介入によりあっけなく終焉をむかえた。

扇風機の風にあたっているとなんとなく疲れるのは、たぶんその風量が常に一定で風向きが規則的だからだろう。生活に規則的でわかりやすいものが増えると楽だけど、そんなものばかりに囲まれていると人間は瞬時にへろへろになる。人生は単純明快なものを好むけれど、それはそれとして、人間は本質的に複雑怪奇なものを欲する生きものだ。

だから扇風機ももっと不規則で、自然な風を生み出せるものが必要だ。つくり方はかんたん。まずは内蔵コンピューターで地球の風の動きをシミュレートする。

 

全然関係ない話に飛ぶけども。センター試験まであと五ヶ月ないらしい。

しかし、そんなこと言われても。まるで焦らないわけじゃないけど、よくよく考えてみると、へえ、としか思いようがないことだ。たしかに今年の三月末から今日までの時間はずいぶん短いように感じられるけど、五か月前の自分の記事を読んでみるといまとは文章の感じも書いている内容もずいぶん違う。きっと考えかたもいくらか違うんだろう。

それとおなじように、おちおちしてたらすぐセンター試験になってしまうかもしれないけど、でもそのあいだにぼくだって勉強に対してもっと積極的な人間に変われているかもしれないんだ。そんなふうにいろいろ問題を総当たりしていると、まあ楽観もできないけど、だからって悲観するのも違うな、と思う。

生きてると時間の流れかたなんてその時々でどんどん移り変わる、授業中は長いし遊んでるときは短い、毎年永遠の苦しみみたく感じられる五月と華々しく矢のように過ぎていく二月がほぼおなじ日数だし、七月末には永遠のようであってもどうせすぐ過ぎてしまうだろうと思われた四十日間がいま、たいして早くも遅くもなく、ぬるっと終ろうとしている。そんなふうに、時間の過ぎてくスピードなんてそのときになってみなきゃわからないもんじゃないのか。

だから五か月間が長いか短いかなんて考えるのは野暮。あと五か月しかないって焦れば冷静さを失うし、まだ五か月もあるって日和ればだいじなタイミングを逃す。それこそさっきの不規則性の話で、もともとごちゃごちゃした速度の集積である時間を一律に流れるベルトコンベアーみたいなものとして無理やりとらえてしまうからだめになる。プールを泳ぐのとおなじ心持で海を泳げばそりゃ疲れも出るし思ったより速度も出ない、思わぬアクシデントに遭遇して取り返しがつかなくなるかもしれない。あと五か月だね、そうだねって、無感動にとらえて、なんの期待も不安も抱かずに、臨機応変に対応できるようにしておけばいいのだ。

焦る必要はない、勉強は全然進んでないけど、それは過ぎたこととして、今からでもちびちび進めればいい。無理やり勉強してからだを壊してしまったら受験どころじゃないし、こころを壊してしまったら元も子もない、修復につかう時間は大学浪人でつかうそれの比じゃない。受かるにしろ落ちるにしろあと五か月で終るんだから、気楽にとらえて、やりたくなったら進めればいい。

とか言ってたらまたいっさい勉強しないうちに今日が終ってしまいそうだ。やっべー。どうしよ。いや、でも、言ってあと五か月? あるし。大丈夫大丈夫。受かる受かる。

雑記

書くことはとくにないけどなんとなくブログが書きたくなる。そういうこともある。

 

こないだ小説を書いた。なんとなく構想を練りながら、これ途中で投げるかもしれないなーと思ってたんだけどちゃんと終れた。一気に書いたのがよかったんだと思う。小説の文章を書くのはぼくにとっておそろしい苦痛だから、長続きするとすぐにやめたくなるんだ。ばばーっと固めてやってしまったほうが、疲れるけど効率はいい。勉強もそんな感じでできたらいいけど。まー、むりだよな。アクセス数とかレビューとかつかないからやる気出ないし。勉強のレビューってなんだ。

 

夕暮れにはにおいがある。日中窓を閉めきって部屋にいて、日が落ちて涼しくなってから窓を開ける、って生活を送っているとわかるようになった。ちょっとなにか焦げついたような、破滅的でさみしいにおいだ。

夏の夕暮れ不規則な風で窓から入りこんでくるそのにおいを、ぼくはずっとこの街のものだと思っていたんだけど、こないだ模試で、電車でに十分くらいのところにある大学のキャンパスまで行ったとき、夕方、駅までの帰り道でおなじにおいがした。どこ行ってもそうなんだろうか。外国ではどうだろうな。

そういえばぼくは外国で夕日というのを意識的に見たことがない気がする。それくらいの時間帯ってごはん食べるところ調べたりとか移動したりとか忙しいことが多いからだと思う。いつかひとりで海外に行ったら、夕日をちゃんと見て、ついでににおいも嗅いで帰ろう。

 

郵便屋さんは毎日午前三時半に来て、まあどうせぼくのじゃないだろう郵便物が郵便受けの底にぶつかる乾いた音と、バイクの唸り声と、残してまた別の家へいそぐ。それでぼくは、そろそろ寝なきゃなあ、とか、夜が明けるまで起きて散歩に出るか、とか考える。夏休みに入ってから染み付いてしまった習慣だ。ちょっと前まではそうでもなかったのに最近連日煌々と明かりの漏れているぼくの部屋の窓をみて、郵便屋さんはなにを思うだろう。なにも思わないか。ぼくが起きていることに、気づいてさえもいないかもしれない。

そういうことを考えていると、郵便配達というのは意外にふしぎな仕事だ。なんの面識もなくなんの興味もない家に届いた手紙とか荷物とか、たいせつに運んで届けるのってどんな気分だろうか。

バイク乗れないし体力ももたないだろうけど、ちょっとやってみたい。

 

もうちょっとで夏休みが終わる。それを思うと去年までなら日中から夕方みたいな感傷が襲ってきたりわけもなく走り回ったりしてみたくなったりして行くあてのない焦燥に振りまわされたもんだけど、今年はそんなのはなくて、ただただ実体を持った後悔だけがうかんできている。これとこれできなかったなとか。なんであれやっちゃったんだろうとか。

あー、思ったとおり、やっぱり今年の八月はおかしかった。迫力がないんだけど、ひどくいやらしい。いつもの八月が一匹の大きな怪物なら今年のは複数の虫みたいだ。なんか、カマドウマとか。複数って言っても群れって呼べるほどじゃないかんじ。四、五匹。

 

あー、学校やだな。家にいるのも飽き飽きだから夏休み終るな! とか思ってないけど、やっぱり学校はやだ。小学生のときからずうっと思っているのでもはや信念に近い。学校がやだ。