窓・壁

 そりゃもちろん、暑い時期は窓なんか閉め切って冷房を効かせるに決まっていて、かといって寒い時期は寒い時期で暖房が要るからやっぱり窓は閉まっているはずで、当たり前にもほどがあるけれどあらためて、こうやって夏のくたばっていく日々のいくつかを外にも出ず、開けっぱなしの窓からそそぐ空気と音のなかで過ごしてみると、一日中窓を開けていられる時期のみじかさはけっこう意外に思われてくる。

 実家にはエアコンがなくて、夏場、日の沈んでからはどこの窓も開けっぱなしで、家族がそれなりに頻繁に出入りしていたので、ただのマンションのくせしてやたら開けた家だった。数日だけでも帰省するとその感じはやっぱり前より強くなっていて、その分、帰ってきたこの部屋の閉鎖性もまたやたらにめだった。最近は友人の出入りが結構あったせいか、ここがぼく個人のものとして外から切り離された場所だということをうっかり忘れそうになっていて、それを思い出すと越してきてすぐのさっぱりした気分が帰ってくる。ぼくはあれを、てっきり実家を出て状況が変わって世界が広くなったことへの解放感なんだと思っていたけれど、違ったらしい。これは部屋の閉鎖性に対する安心だ。

 なんの作物を育てているわけでもないうえ、べつに食べ物の旬とかも意識しないで暮らしている身からすると、秋は実りの時期だという実感はちっともなくて、涼しくなるとかさみしくなるとかそういう程度のことしか感じられない。そういうのは秋の来るにしたがって消えていく夏を引きずっての思いでしかないから結局、ぼくは八月に充満していた何らかを、なんだかんだ言って結局は惜しんでいるだけで、秋についてをやっぱり取りこぼしている。くだらない感傷が場所をとるせいで、ちゃんとした情趣を損なってばかりいる。去年よりはずいぶんマシだよなとか、そうやって以前のことと比べることのみによって現状を肯定してしまうのも、夏を惜しむ気持ちをそのまま秋の印象と取り違えることと何ら変わりはしない。

 現在の時間や現在の自分を過去や未来と比べたりすることなく、それ単体で肯定する、みたいなことをちょっと前から意識しはじめていて、そういう状態で読む本や見る映画のなかに見つける救いはぜんぶそういう形をとっている。だからって小説をそういうことを意識したうえで書けるかっていうとそうじゃなくて、やっぱりまた1000字ちょっとで止まったりしているんだけど。もうずっと、なにかしら書くべきだと思ってしまってばかりでどうしようもない。けっこう困っているけど、高校のころとかみたいにそれ以外の行為がぜんぶしょうもなく思えたりはしていないのでまだ健全だと思う。書きたいなあと思いながら、それはそれとして料理して洗濯して寝ている。今は寝ていない。寝ないと。

近況

 なんとなく昼間見始めた映画が、ついたり消えたりして九時ごろ、ようやく半分くらいまで行ったあたりで、演出上の都合ではさまれた静けさに、釣銭が6枚落ちる音と缶のプルトップが起きる音とひとの咳、爪、たぶん人差し指の、が薄っぺらいアルミ缶をかつかつ叩く音が滑り込む。映画の再生を止める。

 それがぼくに聞こえたのはコカ・コーラの自販機がマンションの道を挟んだちょうど向かいにあるからで、映画を見ていても気づいたのはこの部屋の窓が開いているからで、窓が開いているのはクーラーが要らないくらい今晩が涼しいからで、涼しいのは夏が終わろうとしているからだった。

 八月は料理と飲酒ばっかりしていた気がする。何をした記憶が残っているわけでもなくて実際に何にもしていないんだろうけど生活の実感はこれまでになく色濃く残っていて、これはこれで、と思う。

 だいいち、会話の流れもなんもなしに思い出そうと思って思い出せるほど整った記憶になる出来事になんてなかなか出くわさないから、整った記憶がもしあるとするならそんなのはたいてい、あとで勝手に整えたもののような気がする。べつに思い出さなくて済むなら過去のことなんか思い出さなくったってよくて、重要なのはやっぱり過去からここまでに続いて寝そべる生活で、それがあってきて今もあるのを思い出すのに、こういう夏の夜の冷えた部屋の中はたいへん適していて、酒を飲めたらもう完璧に近かったけれどあいにく断酒で、ぼくの生活はそういう具合にしか今のところ厳しくない。ありがたいことに。

旅行

 そこから帰るのには六時間かかる。各停しかないローカル線をつかって新幹線の通る駅まで、おなじ電車に三時間乗り続ける。中学生だか高校生だか、集団で乗り込んできて人口密度が増したから、知らない街で買った真新しいシャツがまた汗に湿った。網棚の上にはいつも持ち歩いているのより一回り大きいリュックサック、まだいまいち使いなれていないデジタルカメラのなかの写真は、あとで見返してみたらどうして撮ったんだか見当もつかないようなものばっかりで、しかもいまだに頻繁にピントがずれる。それでも段々マシになってきてはいて、何かそういう技能の上達なんてものすごく久々の体験だから、写真を撮るのはとても楽しい。

 高校生のときは写真を撮る暇があったらその場の空気をどうのこうの、みたいな理屈をこねまわしていたけど、今は写真を撮るおかげで知らない場所に行くときのおもしろみが新しく増えていて、それを理由に夏にいろいろ旅行に行くのも楽しみだったりする。まえの土日の遠出も、それのおかげでずいぶん楽しくなった。光景を写真にしようとすることは、風景や食事や会話や考え事の邪魔にはぜんぜんならない。わからないままにとりあえず否定してしまっていたことがとにかく多すぎる。

 大学入ってからこっちの四か月はそういう、これまでないがしろにしてとりこぼしてきたものの回収みたいなことばかりしていて、結局はそれが時間のかさなることなのかもしれないとか最近は思うようになっている。

 

 金曜に授業をさぼってつくった時間で埼玉にある父親の家へ行って、そこから車で父親と一緒に長野のほうへ行って、土日はそこで過ごした。やたらうまい飯やら酒やら、普段なら絶対に会わないような珍しいひとにも会って、それで安直に視野がひろがるとかいうつもりもないけれど、少なくとも今自分の生活がとらえている領域の狭いことと、それがいくらでも広げる余地のあることくらいはわかって、まあとにかくずいぶん気が楽になった。

 なによりうれしかったのは以前から知っている父親の知り合いのおもしろさが、大学に入っていろんな人とかかわるようになったからだと思うんだけど、前よりも鮮明に感じられるようになったことだった。そういうひとたちの提示する、どこに行けとか何やれとか、そういう可能性から感じられる魅力も前より増したように思えた。

 経験というのは大事だなあと、そういう言い古されたことが言いたくなる。誰でもいうことも言えないくせして誰もいえないことを言おうとするにはぼくはいろいろ普通すぎる。それが最近やっとちょっとわかってきたんだった。

こい緑がぼくを

 山の天気は不安定だ、窓の外で雨の急に強まるのが聞こえて、びっくりしてカーテンを開けると赤い折り畳み傘をさしたひとがそこの大通りを左へ歩いていくのが見えた。たとえ天気が良かったって今日はなんにも出かける用事なんかないし出かけたい気持ちもないから終日ひとり家にいることは決まってる。課題も積読も考えることもたくさんあるのに何にもしないでネット見たり音楽聞いて言語化できないただの感傷に浸って、そういうふうに休日を過ごせてしまえる堕落的な自分への愛をまた練り上げてブログなんか更新してみたりする。まあ午前中洗濯して掃除機かけて洗い物したしと、今日はもういいかという感じが出てきていて、そういうとこが独り暮らしの危険性だなあと思う。暮らしの実感におぼれている。

 

 大学に入ってから人としゃべることが劇的に増えて、自分の無駄に御託を並べる癖をあらためてはっきり自覚した。ツイッターがいつまでたってもやめられないのとかこのブログがだらだら一年以上続いてるのからも分かってたことではあるんだけど、まあ実際に会話の中で自分の口から必要のないことばがでろでろ流れ出していて止められないというのを感じるとふわっと絶望が湧いてくる。いらないことしか口に出していないとすら思う。後から考えてみるとまあまあ必要だったっぽいことだってなくもないんだけど、それはどうせ後からぼくが勝手にでっち上げたなんらかのストーリーの中での必要でしかなくて現実に必要か否かとは全然関係がない。というかそれ以前の問題で、その場で自分の吐くことばが必要かどうかわかりもしないくせしてしゃべるのをやめないその姿勢が既によくない。こういう自戒みたいなのを書いてなんとなく楽になった気がしているのもよくない。なんかこういうのも結構前に書いた気がする。環境と気分が変わってるだけで結局考え方がちっとも変っていないなあと、あーもう自分語りはどうでもよくて、まあかといって書けることもこれ以上はない。もういいか。

五月

 音楽の途切れた部屋になにか生きものの息遣いみたいな音があるのに気づいて、皿を洗いながらちょっと怖くなる。洗濯機の回っている音だと気づいたときには逆にもっと怖くなった。ついさっき自分で回したのに忘れていた。来てすぐ、自分で洗濯をすることに慣れていなかったときは洗濯機が回っていると落ち着かなかったもんだけど。本棚に教科書が並び、適当に買って合わなかった枕が変わり、引っ越しのときの段ボールがこの間やっと回収に出て、この部屋にもいいかげん、それなりの時間が堆積している。いつの間にか。四月はじめに切った髪もずいぶん伸びて、たぶん人生でいちばん長い。時間。時間のこと以外はできれば考えたくなかった。

 

 おとといは人が酒持って遊びに来て、案の定酔っぱらって、起きたら昼前で、午前中しか授業がないから選択の余地なくきのうは全休になった。着替えたら実家から送られてきたカメラをもって、電車に乗って知らない街に行って給水塔とかの写真を撮ってきた。べつの県まで行ったから往復で1600円くらい交通費がかかって、完全に無駄遣いなんだけどこういうことにお金が使えなくなったらなにかだめな気がしたからケチらなかった。

 写真は不慣れなせいでびみょうなのしかない。おもしろい風景だと思ってパッて撮ったやつも帰ってから見返すとなんだかよくわかんない写真になっていて、撮った時の気持ちというか時間の流れ方がちゃんと戻ってこない。でもそうやって出来を気にせずにとりあえず撮っていたってことはあんまり無駄なことは考えずにすんでいたわけで、写真撮るのはけっこう精神にいいかもなあと思った。本読まなくなったんだし写真くらい撮っとくかとか、読書から離れつつあることを受け入れてしまえる自分になんとなく落ち着かない。

 

 毎日のように人と話して、頻繁に遊んでいる。自分について考えることが減った。他人のことをちょくちょく考えるようになった。本をあまり読まなくなった。下劣な話でも満足できるようになった。前よりよく笑ってる気がする。日に日に一人でいることに弱くなる。たぶん人間らしくなったんだと思う。でも素直に喜べていない。なんだかんだいってぼくは以前の人間らしさの欠如した自分が好きだったような気がして、あんまり好きになれない今の自分でもまあそれなりになんとかなっている現状が耐えられないというか信じられなくて、「過去の自分に笑われそうで怖い」みたいなことは言わないけど。人との交流で弱ってる大学生の苦悩とか、どうせ好きだったし。今もちょっと好きだし。そういうぼくのことは嫌いで、嫌いになれるくらいには自意識がしぼんでいるらしい。とりあえずはそれが怖い。怖いというか不安だ。ほんとうに不安だ。

クリープ

 部屋にはベランダがないので洗濯物を干すとなると窓のそばにかかっている2メートルくらいの物干し竿に昼間洗濯物を干して、寒かったり暑かったりしない限り窓を開けておき、ぼく自身は風が直接当たらないベッドのほうで音楽をかけて本を読んだりしている。寝転がって本を読んでそのまま眠り、1時間半くらいして目が覚めると音楽は鳴りやんでいて、少しいやな温まりかたをした体を冷やすためテーブルのほうへ風にあたりにいくと、開けっ放しにしてあったクリープの袋が窓からの風で倒れて、テーブルの上にたぶん6gくらいの白い粉が散乱しているのを見つける。とりあえず今のところは輪ゴムで留めるとして、今ある分を使い切ったら瓶に入ったやつに買い替えるか、容れ物を買ってきてそこに詰めるかしないとなあと思いながら散乱した粉をあつめて捨てる。そういえばこういう挙動は一年くらい前のぼくだったらなんとなくダサくて耐えられなかっただろうなと考える。べつにそのころから今までの自分の変化に感慨深くなるとかそういうことではないと思うんだけど、そういう行動を今のぼくがそうして平然と取っていることは少し変な感じがした。

 履修する講義とか所属するサークルとか固まってきて生活が落ち着いてきてちょっと安心するのだけど、そうすると思ってたほど暇じゃないことが判明してそっちはそっちで混乱がはじまる。具体的には本を読んだりする余裕がない。まあ読むっちゃ読むのだがいまいち面白くない。たぶん小説を読むときにだけ必要な注意力みたいなものが意識に集まってこない。読めないなら読もうとしなければいいんだけど、なんとなく「読まなきゃ」みたいな意識も働いてたりしてうっとうしい。もっと単純に読みたいと思いたい。あーやべえ明日学校行きたくない。

 大学生になったのだなあと、実感できるようになると時々、高校のころの記憶がいわゆる「思い出」としてよみがえってくることがある。まあわかりやすい青春の断片みたいなやつはもちろん一個もないんだけど、一人で部屋にいたときのことや中学のころからの友達と一緒にいたときのことはまあまあのそれらしさで引っ張り出されてくる。そういうのはまあそりゃ気持ちよくはあるんだけど同時に気味悪くもある。根本的にガラじゃないし。「思い出」は思い出している自分の意識であって過去の自分の記憶でも時間でもない。過去の自分に流れた時間というのは今のぼくがただの感傷で干渉するのはおこがましい。うまくまとまっていない考えなので書きづらいけど(だからこそ書いておかないとすぐ忘れてしまうんだけど)、大事なのは「過去にあったこういうこと」とか「その時の自分にとってはなぜか自然だったこういうこと」ということのはずだ。なのに、それを思い出にしたとたん「こういうことを経てある今の自分」がそれらに優先してきてしまうというか。そこが違和感なんじゃないかと思うんだけど。

四月

 今日は一限から授業で、眠いし寒いし行きたくないんだけど仕方ないのでぼちぼち大学まで自転車を漕いでいた。大学構内に入って、桜の木の並んで立っている下り坂に差し掛かり、さっきまでの長い上り坂で乱れた息を整えて視線を上にあげたら、どの桜もやたら幹が黒々としているのを見て、ああ夜に降った雨で湿って黒くなっているんだなと思って、ぼくはなんとなく感動した。夜に雨が降っていたということ自体は湿った道路を見て気づいていたけど、それが実感できたというか、夜はぼくが眠っているだけの時間じゃないんだとか、ぼくが眠っている間に流れている時間も時間なんだとか、だいがいそういうことが雨を通して理解されたような感じがしたのだった。時間が流れているということはそれだけで感動的なんだなと最近思うようになった。それを実感している間は、料理をしている時でも歩いている時でもなんでも、とても気分がよくて楽しい。

 

 この部屋に移ってきて二週間弱経って、やっと少しずつ寂しくなくなってきて、そのことによってぼくはこの部屋に暮らしはじめてから感じてきた寂しさというのが母親の不在であるとか一人でいる自分、友達との距離なんかに対するものではなくて、まだ誰のものでもないこの部屋の空虚さに対して感じていたものだったということに気づく。家具や家電が集まってその位置が定まり、ぼくの時間が少しずつ空間に溶けだして、ようやっとこの部屋も家らしくなってきた。ぼくの生活に流れる時間とこの部屋に流れる時間の境界線が薄まってきたんだろうか。
 大学は何かとややこしいことを言いつけて精神に負担をかけてくるけれど、それはそれとして、というかそのためにより一層、この部屋で流れる時間の流れかたが気持ちよく感じられる。単純に、自分のものでしかない空間に一日何時間も居続けられることはそれだけで晴れ晴れするほど喜ばしい。それには誰にもなにも言われなくて気楽だとか、そういうぼくが勝手に見いだしているものとはまた違った、もっとスケールの大きいところから出てくる価値というのがある気がする。

 

 いちいち文句を付けたり寄ってくる人を傲慢に選別しないようにしてみると、意外なほど順当に人間関係ができてきて、いわゆるグループみたいなのに埋め込まれたりもする。あんまり積極的には関わりたくない微妙な人が多いどころかほぼ全員だけど、こういうのは妥協しないとどうにもならないものだと言い聞かせて周囲の下劣や低俗、って言うとさすがにあれか、まあ自分とのスタイルの違い? もとりあえずは我慢している。日毎に精神が磨耗する。みんなこんなにしんどいことを毎日ちくちくやり続けているのかと、頭が下がると言うより気の遠くなる思いだ。人と交流するのは本当にしんどい。こういうときにも時間が流れていることをちゃんと実感できていないとだめだなあと思う。ぼくはたぶん、自分と風景の間とか、自分の中にしか時間は流れていないもののように思っているのだ。そういう独りよがりをなんとかしていかないとどうしようもないと思う。なんとかしていかないといけないと思う。