年越し

 2018年の1月8日を生きている。閉店六分前のスーパーマーケットの回収ボックスに瓶と牛乳パックとペットボトルと缶を出しに行くという努力によって昨日の1月7日のぼくから祝福された一日を生きている。365日ひたすら労力を費やして2017年のぼくがみっちり祝福したはずの2018年を生きている。今日もなんらかの方策をもちいて明日の1月10日を、ひいては2019年を祝福しなければいけない。なんらかの方策。いくらかの労力。

 年末年始は実家に帰り、久々に母親の顔を見た。老けたなあとかはまだ思わないが、家がおしゃれになっているのを見たり旅行の土産話なんかを聞いていると、久々の一人暮らしをのびのびやってることがわかって、少し寂しいけれどうれしくなる。大晦日には目的もなく散歩に出る。ときどき立ち止まってスニーカーの汚れをじっと見る。曇りの日の夕方の重苦しい青色とスニーカーの白色に挟まれた茶色いその汚れを文にして保存できないものかと思って、そうすると久々にはっきりした文章で考えが進行した。適当にぶらぶらしていたらコンビニにたどり着いたので適当にアイスを買って、食いながら年を越す。いつにもまして実感がない、というか去年までなら新しい年が来たことに対してもっといろいろ考えたり感じたりしていたはずだよなという思いなので、ぼくにとっての新年の実感がその程度になってしまっただけなのだろう。それでもまあ帰省前後でこの部屋もそれなりに新しくなる。新しい棚が古い棚に並び、収納できるスツールも新しく来て、実家からは漫画とカップ麺が届くことになっており、気まぐれで買ったモノクロの映画数本をそのうち見なければいけないらしい。どうしてこんなに他人事なんだろう。

 去年の今頃はまだ受験生で、そのあと合格して引っ越して大学が始まって友達も今までと比べたらびっくりするくらいたくさんできて、人間関係やら生活やら勉強やら、自分自身のことも、いろんなことに手を回そうとして、対応できる事象もできない事象もあった。いくつものことが一気に動いて、いまだに処理しきれていないことがたくさんあって、そのせいか新年早々体調も悪いしなんとなく上の空だ。処理できたはずなのに怠けてできていないこともたくさんある。具体的にはもっと腰を据えて勉強をしていかないといけない。今年は勉強をしないと。日に日に怠け癖が強くなっていくようにすら思う。無為に過ぎていく時間を、悲しむだけなら小学校のころにだってしていた。

Faces of Strummer

 窓のそとを流れていく、車のヘッドライトや街灯のまぶしさに塗れたコンクリートのうえの雨を見るためにこのバスに乗り込んだんだったらよかったのに。なんにも考えないで無造作に席に座っている、ぼくはこまかい動作でいちいちかっこつけなくなって、かっこつけられなくなって、ていねいさを心がけなくなって、それはべつにいいことでも悪いことでもないしいいとか悪いとか考えてはならないとまで、思うには思うけど不可逆的にさみしい。ぼくは19歳になって町は冬になって雨がやまないからバイト先の近所に自転車が置きっぱなしになっている。

 最近は小説をまた少しずつ読むようになって、文章のこととかをぼちぼち考えることもあり、来年から大学でフランス文学をやるのがどうも決まったらしいのもあって脳の容量をけっこうそっち方面に割いている。それは全然いいんだけど部屋が片付かないのも外食が多いのも飲酒しすぎなのも欠席のせいで単位を落としたのも問題で、とにかく生活が雑になってきた感じがある。もちろん丁寧に生活するっていうのは高校のころの頬杖の付きかたや本のページのめくりかたを誰も見てないのにやたら気にすることとは全然関係がないんだけどとにかくそういう類の意識の張り詰めかたがまた要るらしく、もっと焦らなきゃとか中年みたいな考えはたぶん若さの冒涜で、そういえばカニクリームコロッケを長らく食べていない。全然関係ない話が出てきたからたぶんもう書くことなくて、早く寝ようと思う。ちっとも頭がよさそうじゃない文章を書いてしまったな。

窓・壁

 そりゃもちろん、暑い時期は窓なんか閉め切って冷房を効かせるに決まっていて、かといって寒い時期は寒い時期で暖房が要るからやっぱり窓は閉まっているはずで、当たり前にもほどがあるけれどあらためて、こうやって夏のくたばっていく日々のいくつかを外にも出ず、開けっぱなしの窓からそそぐ空気と音のなかで過ごしてみると、一日中窓を開けていられる時期のみじかさはけっこう意外に思われてくる。

 実家にはエアコンがなくて、夏場、日の沈んでからはどこの窓も開けっぱなしで、家族がそれなりに頻繁に出入りしていたので、ただのマンションのくせしてやたら開けた家だった。数日だけでも帰省するとその感じはやっぱり前より強くなっていて、その分、帰ってきたこの部屋の閉鎖性もまたやたらにめだった。最近は友人の出入りが結構あったせいか、ここがぼく個人のものとして外から切り離された場所だということをうっかり忘れそうになっていて、それを思い出すと越してきてすぐのさっぱりした気分が帰ってくる。ぼくはあれを、てっきり実家を出て状況が変わって世界が広くなったことへの解放感なんだと思っていたけれど、違ったらしい。これは部屋の閉鎖性に対する安心だ。

 なんの作物を育てているわけでもないうえ、べつに食べ物の旬とかも意識しないで暮らしている身からすると、秋は実りの時期だという実感はちっともなくて、涼しくなるとかさみしくなるとかそういう程度のことしか感じられない。そういうのは秋の来るにしたがって消えていく夏を引きずっての思いでしかないから結局、ぼくは八月に充満していた何らかを、なんだかんだ言って結局は惜しんでいるだけで、秋についてをやっぱり取りこぼしている。くだらない感傷が場所をとるせいで、ちゃんとした情趣を損なってばかりいる。去年よりはずいぶんマシだよなとか、そうやって以前のことと比べることのみによって現状を肯定してしまうのも、夏を惜しむ気持ちをそのまま秋の印象と取り違えることと何ら変わりはしない。

 現在の時間や現在の自分を過去や未来と比べたりすることなく、それ単体で肯定する、みたいなことをちょっと前から意識しはじめていて、そういう状態で読む本や見る映画のなかに見つける救いはぜんぶそういう形をとっている。だからって小説をそういうことを意識したうえで書けるかっていうとそうじゃなくて、やっぱりまた1000字ちょっとで止まったりしているんだけど。もうずっと、なにかしら書くべきだと思ってしまってばかりでどうしようもない。けっこう困っているけど、高校のころとかみたいにそれ以外の行為がぜんぶしょうもなく思えたりはしていないのでまだ健全だと思う。書きたいなあと思いながら、それはそれとして料理して洗濯して寝ている。今は寝ていない。寝ないと。

近況

 なんとなく昼間見始めた映画が、ついたり消えたりして九時ごろ、ようやく半分くらいまで行ったあたりで、演出上の都合ではさまれた静けさに、釣銭が6枚落ちる音と缶のプルトップが起きる音とひとの咳、爪、たぶん人差し指の、が薄っぺらいアルミ缶をかつかつ叩く音が滑り込む。映画の再生を止める。

 それがぼくに聞こえたのはコカ・コーラの自販機がマンションの道を挟んだちょうど向かいにあるからで、映画を見ていても気づいたのはこの部屋の窓が開いているからで、窓が開いているのはクーラーが要らないくらい今晩が涼しいからで、涼しいのは夏が終わろうとしているからだった。

 八月は料理と飲酒ばっかりしていた気がする。何をした記憶が残っているわけでもなくて実際に何にもしていないんだろうけど生活の実感はこれまでになく色濃く残っていて、これはこれで、と思う。

 だいいち、会話の流れもなんもなしに思い出そうと思って思い出せるほど整った記憶になる出来事になんてなかなか出くわさないから、整った記憶がもしあるとするならそんなのはたいてい、あとで勝手に整えたもののような気がする。べつに思い出さなくて済むなら過去のことなんか思い出さなくったってよくて、重要なのはやっぱり過去からここまでに続いて寝そべる生活で、それがあってきて今もあるのを思い出すのに、こういう夏の夜の冷えた部屋の中はたいへん適していて、酒を飲めたらもう完璧に近かったけれどあいにく断酒で、ぼくの生活はそういう具合にしか今のところ厳しくない。ありがたいことに。

旅行

 そこから帰るのには六時間かかる。各停しかないローカル線をつかって新幹線の通る駅まで、おなじ電車に三時間乗り続ける。中学生だか高校生だか、集団で乗り込んできて人口密度が増したから、知らない街で買った真新しいシャツがまた汗に湿った。網棚の上にはいつも持ち歩いているのより一回り大きいリュックサック、まだいまいち使いなれていないデジタルカメラのなかの写真は、あとで見返してみたらどうして撮ったんだか見当もつかないようなものばっかりで、しかもいまだに頻繁にピントがずれる。それでも段々マシになってきてはいて、何かそういう技能の上達なんてものすごく久々の体験だから、写真を撮るのはとても楽しい。

 高校生のときは写真を撮る暇があったらその場の空気をどうのこうの、みたいな理屈をこねまわしていたけど、今は写真を撮るおかげで知らない場所に行くときのおもしろみが新しく増えていて、それを理由に夏にいろいろ旅行に行くのも楽しみだったりする。まえの土日の遠出も、それのおかげでずいぶん楽しくなった。光景を写真にしようとすることは、風景や食事や会話や考え事の邪魔にはぜんぜんならない。わからないままにとりあえず否定してしまっていたことがとにかく多すぎる。

 大学入ってからこっちの四か月はそういう、これまでないがしろにしてとりこぼしてきたものの回収みたいなことばかりしていて、結局はそれが時間のかさなることなのかもしれないとか最近は思うようになっている。

 

 金曜に授業をさぼってつくった時間で埼玉にある父親の家へ行って、そこから車で父親と一緒に長野のほうへ行って、土日はそこで過ごした。やたらうまい飯やら酒やら、普段なら絶対に会わないような珍しいひとにも会って、それで安直に視野がひろがるとかいうつもりもないけれど、少なくとも今自分の生活がとらえている領域の狭いことと、それがいくらでも広げる余地のあることくらいはわかって、まあとにかくずいぶん気が楽になった。

 なによりうれしかったのは以前から知っている父親の知り合いのおもしろさが、大学に入っていろんな人とかかわるようになったからだと思うんだけど、前よりも鮮明に感じられるようになったことだった。そういうひとたちの提示する、どこに行けとか何やれとか、そういう可能性から感じられる魅力も前より増したように思えた。

 経験というのは大事だなあと、そういう言い古されたことが言いたくなる。誰でもいうことも言えないくせして誰もいえないことを言おうとするにはぼくはいろいろ普通すぎる。それが最近やっとちょっとわかってきたんだった。

こい緑がぼくを

 山の天気は不安定だ、窓の外で雨の急に強まるのが聞こえて、びっくりしてカーテンを開けると赤い折り畳み傘をさしたひとがそこの大通りを左へ歩いていくのが見えた。たとえ天気が良かったって今日はなんにも出かける用事なんかないし出かけたい気持ちもないから終日ひとり家にいることは決まってる。課題も積読も考えることもたくさんあるのに何にもしないでネット見たり音楽聞いて言語化できないただの感傷に浸って、そういうふうに休日を過ごせてしまえる堕落的な自分への愛をまた練り上げてブログなんか更新してみたりする。まあ午前中洗濯して掃除機かけて洗い物したしと、今日はもういいかという感じが出てきていて、そういうとこが独り暮らしの危険性だなあと思う。暮らしの実感におぼれている。

 

 大学に入ってから人としゃべることが劇的に増えて、自分の無駄に御託を並べる癖をあらためてはっきり自覚した。ツイッターがいつまでたってもやめられないのとかこのブログがだらだら一年以上続いてるのからも分かってたことではあるんだけど、まあ実際に会話の中で自分の口から必要のないことばがでろでろ流れ出していて止められないというのを感じるとふわっと絶望が湧いてくる。いらないことしか口に出していないとすら思う。後から考えてみるとまあまあ必要だったっぽいことだってなくもないんだけど、それはどうせ後からぼくが勝手にでっち上げたなんらかのストーリーの中での必要でしかなくて現実に必要か否かとは全然関係がない。というかそれ以前の問題で、その場で自分の吐くことばが必要かどうかわかりもしないくせしてしゃべるのをやめないその姿勢が既によくない。こういう自戒みたいなのを書いてなんとなく楽になった気がしているのもよくない。なんかこういうのも結構前に書いた気がする。環境と気分が変わってるだけで結局考え方がちっとも変っていないなあと、あーもう自分語りはどうでもよくて、まあかといって書けることもこれ以上はない。もういいか。

五月

 音楽の途切れた部屋になにか生きものの息遣いみたいな音があるのに気づいて、皿を洗いながらちょっと怖くなる。洗濯機の回っている音だと気づいたときには逆にもっと怖くなった。ついさっき自分で回したのに忘れていた。来てすぐ、自分で洗濯をすることに慣れていなかったときは洗濯機が回っていると落ち着かなかったもんだけど。本棚に教科書が並び、適当に買って合わなかった枕が変わり、引っ越しのときの段ボールがこの間やっと回収に出て、この部屋にもいいかげん、それなりの時間が堆積している。いつの間にか。四月はじめに切った髪もずいぶん伸びて、たぶん人生でいちばん長い。時間。時間のこと以外はできれば考えたくなかった。

 

 おとといは人が酒持って遊びに来て、案の定酔っぱらって、起きたら昼前で、午前中しか授業がないから選択の余地なくきのうは全休になった。着替えたら実家から送られてきたカメラをもって、電車に乗って知らない街に行って給水塔とかの写真を撮ってきた。べつの県まで行ったから往復で1600円くらい交通費がかかって、完全に無駄遣いなんだけどこういうことにお金が使えなくなったらなにかだめな気がしたからケチらなかった。

 写真は不慣れなせいでびみょうなのしかない。おもしろい風景だと思ってパッて撮ったやつも帰ってから見返すとなんだかよくわかんない写真になっていて、撮った時の気持ちというか時間の流れ方がちゃんと戻ってこない。でもそうやって出来を気にせずにとりあえず撮っていたってことはあんまり無駄なことは考えずにすんでいたわけで、写真撮るのはけっこう精神にいいかもなあと思った。本読まなくなったんだし写真くらい撮っとくかとか、読書から離れつつあることを受け入れてしまえる自分になんとなく落ち着かない。

 

 毎日のように人と話して、頻繁に遊んでいる。自分について考えることが減った。他人のことをちょくちょく考えるようになった。本をあまり読まなくなった。下劣な話でも満足できるようになった。前よりよく笑ってる気がする。日に日に一人でいることに弱くなる。たぶん人間らしくなったんだと思う。でも素直に喜べていない。なんだかんだいってぼくは以前の人間らしさの欠如した自分が好きだったような気がして、あんまり好きになれない今の自分でもまあそれなりになんとかなっている現状が耐えられないというか信じられなくて、「過去の自分に笑われそうで怖い」みたいなことは言わないけど。人との交流で弱ってる大学生の苦悩とか、どうせ好きだったし。今もちょっと好きだし。そういうぼくのことは嫌いで、嫌いになれるくらいには自意識がしぼんでいるらしい。とりあえずはそれが怖い。怖いというか不安だ。ほんとうに不安だ。