日常・旅行・反復

 友人にけっこう結婚式場でバイトしている人が多くて、思うのは、毎週毎週いろんなところでいろんな人が一生に一回かもしれない、まあまずどんだけ多くても十回もしないだろう、結婚式を挙げていて、それはそれぞれの人にとってはもしかしたらあとで思い返せば決定的な瞬間になりえるのかもしれないのに、自分のほうは毎週毎週ルーティンワークとして結婚式場に行って働いてというのを「こなしている」、その、あっちとそっちとの間のギャップを当たり前にみんな処理しているのがおもしろいなということだ。べつにぼくにはできないからどうのこうとかいうのが言いたいのではなくて、自分もそういうバイトを始めればそういう処理ができてしまうのだろうなということも含めて、やっぱり他人が自分と同じ一日同じ時間をどう過ごしていようがあんまりこっちには関係ないのかもしれないというような考えがあった。

 で、その関係ない、というのがやっぱり言いすぎで、言いすぎというかこの場合着目すべきは関係なくなってしまう自分にとっての他人の時間のほうではなくて、関係ないことはない他人の時間を関係ないと切り離してしまえる生活のルーティンの効き目のほうなんじゃないか、ということをこないだ旅行に行ってきて思ったのでその旅行について書く。

 旅行は四泊五日、土曜から水曜まで、学校は三日間休んで、石川県七尾まで電車で行って素泊まりの安い民宿に泊まっていた。海沿いの、そこは七尾でもかなり田舎の方に位置していて、なんせ電車に乗らないとコンビニがない。見るものも言うほどないのでいっそ何も見ない方向で、四日間同じようなことを繰り返して過ごしていたのだが、それでも、というかそのおかげか、今までひとりで行った旅行の中でいちばん充実していたような気すらする。

 同じことというのは、十時くらいに起きて、だらだら近くの温泉へ行って、さっぱりしたら喫茶店に寄ってカレー喰ってコーヒー飲んで、そのままそこで本読んで、飽きたら散歩に出かけて、夜には帰ってきて地元の居酒屋で酒を飲んで、寝るという、ほんとうにそれだけで、名所も旧跡も、まあそもそもないんで見ようがないがとにかく見ようともせず、散歩も目的はあるようなないようなだった。例えば四日中三日の散歩は近くにある橋まで歩こうと出かけたんだけど結局二日連続で道に迷って、でもまあいいかとそのまま歩き続けてまるで見当違いのところまで行ってぐるっと回って帰ってきたりしてて、はじめて橋にたどり着いた日も着いた着いたと思って満足してそのまま来た道を引き返した。

 それで何が面白いのかというと、まあもちろん学校休んで目的もなく遠方へ旅行に行ったというのがそもそも愉快だったというのもあるけど、現地に行っていろいろ思うことがあったのが最初に言ったルーティンワークがどうのこうのの話で、ぼくはもちろん旅行者なので普段のくらしからは離れているんだが、さっき上に書いたようなルーティンワークをとっとと決めてしまったのであまりはしゃいで騒ぎ立てるといったことがなくて、むしろ地元の人が見慣れないぼくの顔を見ておもしろがってくれて、客・バイトの関係でいうとそういうときぼくはむしろバイト側に回っていてそういうのも楽しく、とにかくふだんの旅行の、こっちは客として非日常的環境に浮かれていて、周りは粛々と観光客としてか、それとも見慣れぬよそ者としてか、とにかくこっちを「処理」しにくる、という構図から離れて旅行ができたので非常に新鮮だった。くらしから離れても、短期的とはいえルーティーンを組んでその通り動くというのはできるのだなという当たり前といえば当たり前な気づきをした。ふだんのあっちいってこっちいっての旅行に比べると行動のバリエーションは少なくなるんだけど、のびのびと時間を過ごすことができて、自由さと自由度とはまた別なんだなというようなことも考える。

 時間がどうのこうので言うと、今読んでいるヴァージニア・ウルフの「灯台へ」の2部「時間はゆく」が素晴らしかった。これもさっき言った旅行先の喫茶店で読んだ。これは1部「窓」の最後のシーンからそのままつながって、急に文章に時間の流れる速度が上がってほんの40ページで10数年経ってしまうようなくらいになり、そのまま1部で舞台になっていた屋敷が古びていく描写が延々と続き、合間合間にその間に登場人物に起こった出来事などがぽつぽつ挟まれていく。そうした描写の中には第一次世界大戦の影響も当然含まれているんだけど、それも時間経過の作用の一部として扱われているのがすごいところだったなと思うし、なによりその語りの速度についていって屋敷が古びていくのを眺めていると、冗長でかったるかった1部の内容が美しく思い起こされるところで、過ぎ去ってしまった時代への思慕、解説では「レクイエム」、というのがどれだけ強力なかたちなのか思い知らされる。それは並行して読んでいるサン・テグジュペリの「人間の大地」のほうの読めかたにも影響が及ぶくらいの強靭さで、「灯台へ」はとにかくとっとと読んでしまって、またもう一回読み返したいと思う。

 そういえば「人間の大地」は授業で扱う用に再読しているんだけど、あいかわらずいい本だなあと掛け値なしに思う。なにより学校の授業で小説を扱えるというのがとてもうれしい。やることはいっぱいあって、具体的にはひたすらフランス語の勉強なんだが、とにかくそれのためならやってもいいよなと、まあ思ってはいるんだが。

言いたいことがあんまりない

 これは本当なのだけど言いたいことがなくて、ブログの更新はこの通りいつぶりだかわからない。twitterも最近あんまり動かしていないし、人と会っても中身のない、文脈任せの内輪ノリみたいな会話しかしない。情報の行き来がない会話しかしていない。情報の行き来がないということが人との会話の本質なのかもしれないとかいうことをちょっと考えるくらいには、情報の行き来がない会話しかしてない。本質。

 とにかく、情報の行き来がない会話のみしている。

 文章を書きたいとは時々思っていて、時々どころかかなり頻繁に思っていて、でもワードだの原稿用紙だの開くと何にもわからなくなってしまうというか、書くことなんか何にもないことがわかるというか、確実にそのどっちかなんだけど、とにかく結果としては、何にも書かない。

 書きたいことはわりかしたくさんある。最近やっとわかったけれど、書きたいことと書くことは別だった。言いたいことと言うことはもっと違っている。言うこと。これは説明がものすごく難しいのかもしれないけれど、ぼくの、言うことは言いたいことでも言えることでも言わなければならないことでも言ってしまうことでもなくあえて言えば近いのは言わされていることなんだけどそれもやっぱり違っている。今のはちょっと言い訳っぽかった。

 文章を書くときや書かなきゃと考えたとき、ぼくはたいてい何かと何かをつなげようとしていたんじゃないかと思う。この映画とあの音楽。この人と自分。さっき起こったことと、生活の展望。自分と自分の文章。関係性を見つけたりでっち上げたりして、とにかくつなげる。そのつながりは言葉にした時点でなにかもうだめなのかもしれないが、だめなつながりこそ残しておかなきゃとか、誰か思うんだろうか。

 話の流れからは多少それるのかもしれないけど最近周囲で恋愛による負傷者が出た。けっこうみんな恋愛によって負傷して恋愛による負傷者になっていく。ぼく自身も自分の恋愛による負傷がゼロだとは思えない。恋愛って少なくともぼくの知っている中では人間どうしの直接的なつながりのもっともたるものなんだけど、どうして負傷の理由がみんなそれなのだろう。人間と人間が直接結びつくのは無理があるのだろうかやっぱり。

 べつにそういう漠然としたことを実際に考えているわけではなく、もっと具体的な嫌さのあるものごとで悩んでいるんだけど、ネットで書くことじゃないと思うので、ここでは漠然としたことで悩む。低い草の生えた斜面で星空を眺めておく。

 インターネットとか金とか毎日の飯とかなんでもいいが、やっぱり人間と人間のつながりにはなんかしらの仲介があったほうがいいんじゃないか。そういうことにしておくと、この文章のまとまりもちょっと出てきて、いい気がする。何かと何かがつながることそのものに絶望するといよいよ何も言わなくなるような気がしている。絶望? つながることは基本いい。文章が書けるし。高校のときのぼくは文章を書くたびになにかダメージを受けていたような気がするけど、ハルジオンの茎と焼きそばとか、でもつなげて遊んでいても害があるんだろうか。

さいきん

 夜、映画を見終わる。これがなにせたいへん良かったのでパンフレットを買ってついでに映画館のポイントカードを作ってもらって、ともたもたしていたら目の前で帰りのバスを逃す。といっても風も雪もなかったから大して寒さを感じていなかったし、あと、映画がなにせたいへん良かったのでべつにイライラもしない。いっそ二時間かけて歩いて帰ってやろうかと思いながら、とりあえず四つ先のバス停まで歩いてみたらちょうどバスが来た。降りるときに運賃を払って分かったが、バス代に換算すると70円分だけ歩いたらしい。

 その映画というのがアレハンドロ・ホドロフスキーの『エンドレス・ポエトリー』だったんだけど、なにせたいへん良かった。変な演出上の踊りとかだけではなくて、こまかい俳優の動きや人物のメンタルの流れもガチャガチャ不格好で滑稽で、笑えるんだけど、なめらかさを意識していないせいかなまぐさいリアリティがあって、痛いとか気恥ずかしいとか思っていた。俳優の動きについては、たぶんぼくが自分の日常動作を連続性がなくてガタガタだと自覚して恥じているから増幅されてるだけなんだろうけど。ただ心情や発言のコロコロ変化する滑稽さは青春映画らしいとかの言い方で安定させてしまえないくらいリアルだし、安定させたくなるくらい怖い。

 映画を最近はけっこう真面目にたくさん見ていて、将来的にはフランス語の勉強とかにも役立てたいなあと思っているんだがまだ年末に買ったDVDにはひとつも手を付けていない。近所のローカルシネマでやってる映画を手当たり次第に観ている。その中だとこの間見た『希望のかなた』はとても良かった。これも『エンドレス・ポエトリー』と同じく深刻だけどちゃんと笑える映画だけど、ただこっちにはあの深刻さと真っ当さから可笑しさがにじみ出てくる感じというのはなく、ユーモアが直接的に絶望に対する武器みたいに扱われているお話で、分厚いんだけどスッと入ってくる軽快なお話だった。人の善意がちゃんと実を結ぶことほどの救いはない。

 それで、バスの中では保坂和志の『言葉の外へ』を読んでいたんだけどこれもすごくおもしろい。17歳のいちばん暇でなにかとやる気のあった時期に結構熱中して読んでいた作家だけにやっぱりしっくりくるし、いちおうずっと小説を書きたいなあ書きたいなあと思っている身としては、書く気が起きるとかいうのでは全然ないんだけどなんというか覚悟の固まる話がたくさん載っている。ただまあ実際にはちっとも書いてない。

 映画と小説の話をしている流れでついでにそのまま書きたいんだけどついこないだ出たPeople In The Boxの新譜を、買ってからずうっと聴いているがほんとうに音がよくて、『動物になりたい』のイントロのギターが聞きたいとか『無限会社』のBパートのベースが聞きたいとか『夜戦』の拍子が変わるとこが聞きたいとかチクチク細かいところを聞きこんでいたらどんどん時間がたっていく。さっき保坂和志の話で17歳のとき熱中してたものはしっくりくるとか書いたけどPeople In The Boxこそその最もたるもので、とにかくピープルばっかり聞いていた時期があったもので端から端まできっちり馴染んでいて、でも今回の新譜は全部耳に新しい。とにかく全部メロディがいいんだけど特に一曲目の『報いの一日』と『ぼくは正気』とは演奏がボーカルを前に出して一歩後ろに下がってる感じで声が細かくよく耳に入る。波多野裕文の歌いかたがずいぶん人懐っこくなったというか、たぶん歌詞が前よりスムーズにメロディに沿ってるのもあると思う。

 そういえば最近小説を集中して読む能力がかなり戻ってきていて、音楽に耳を澄ます時間が増えたのとこれは関係があると思う。吉田健一の『時間』(けっきょくまだ半分も読んでない)のどっかでたっていく時間を意識するのには聴覚を意識するのが手っ取り早いみたいなことが書いてあって、保坂和志の小説論の内容がもうちょっとちゃんと頭になじんでいればこれと文章を読むのとをスッとつなげられたりするんだろうけど。再読したいものも含めて読む本がどんどん増えていくのは、いつも必要以上に慌ててしまうので忘れるけど、ほんとうはとっても喜ばしい。

年越し

 2018年の1月8日を生きている。閉店六分前のスーパーマーケットの回収ボックスに瓶と牛乳パックとペットボトルと缶を出しに行くという努力によって昨日の1月7日のぼくから祝福された一日を生きている。365日ひたすら労力を費やして2017年のぼくがみっちり祝福したはずの2018年を生きている。今日もなんらかの方策をもちいて明日の1月10日を、ひいては2019年を祝福しなければいけない。なんらかの方策。いくらかの労力。

 年末年始は実家に帰り、久々に母親の顔を見た。老けたなあとかはまだ思わないが、家がおしゃれになっているのを見たり旅行の土産話なんかを聞いていると、久々の一人暮らしをのびのびやってることがわかって、少し寂しいけれどうれしくなる。大晦日には目的もなく散歩に出る。ときどき立ち止まってスニーカーの汚れをじっと見る。曇りの日の夕方の重苦しい青色とスニーカーの白色に挟まれた茶色いその汚れを文にして保存できないものかと思って、そうすると久々にはっきりした文章で考えが進行した。適当にぶらぶらしていたらコンビニにたどり着いたので適当にアイスを買って、食いながら年を越す。いつにもまして実感がない、というか去年までなら新しい年が来たことに対してもっといろいろ考えたり感じたりしていたはずだよなという思いなので、ぼくにとっての新年の実感がその程度になってしまっただけなのだろう。それでもまあ帰省前後でこの部屋もそれなりに新しくなる。新しい棚が古い棚に並び、収納できるスツールも新しく来て、実家からは漫画とカップ麺が届くことになっており、気まぐれで買ったモノクロの映画数本をそのうち見なければいけないらしい。どうしてこんなに他人事なんだろう。

 去年の今頃はまだ受験生で、そのあと合格して引っ越して大学が始まって友達も今までと比べたらびっくりするくらいたくさんできて、人間関係やら生活やら勉強やら、自分自身のことも、いろんなことに手を回そうとして、対応できる事象もできない事象もあった。いくつものことが一気に動いて、いまだに処理しきれていないことがたくさんあって、そのせいか新年早々体調も悪いしなんとなく上の空だ。処理できたはずなのに怠けてできていないこともたくさんある。具体的にはもっと腰を据えて勉強をしていかないといけない。今年は勉強をしないと。日に日に怠け癖が強くなっていくようにすら思う。無為に過ぎていく時間を、悲しむだけなら小学校のころにだってしていた。

Faces of Strummer

 窓のそとを流れていく、車のヘッドライトや街灯のまぶしさに塗れたコンクリートのうえの雨を見るためにこのバスに乗り込んだんだったらよかったのに。なんにも考えないで無造作に席に座っている、ぼくはこまかい動作でいちいちかっこつけなくなって、かっこつけられなくなって、ていねいさを心がけなくなって、それはべつにいいことでも悪いことでもないしいいとか悪いとか考えてはならないとまで、思うには思うけど不可逆的にさみしい。ぼくは19歳になって町は冬になって雨がやまないからバイト先の近所に自転車が置きっぱなしになっている。

 最近は小説をまた少しずつ読むようになって、文章のこととかをぼちぼち考えることもあり、来年から大学でフランス文学をやるのがどうも決まったらしいのもあって脳の容量をけっこうそっち方面に割いている。それは全然いいんだけど部屋が片付かないのも外食が多いのも飲酒しすぎなのも欠席のせいで単位を落としたのも問題で、とにかく生活が雑になってきた感じがある。もちろん丁寧に生活するっていうのは高校のころの頬杖の付きかたや本のページのめくりかたを誰も見てないのにやたら気にすることとは全然関係がないんだけどとにかくそういう類の意識の張り詰めかたがまた要るらしく、もっと焦らなきゃとか中年みたいな考えはたぶん若さの冒涜で、そういえばカニクリームコロッケを長らく食べていない。全然関係ない話が出てきたからたぶんもう書くことなくて、早く寝ようと思う。ちっとも頭がよさそうじゃない文章を書いてしまったな。

窓・壁

 そりゃもちろん、暑い時期は窓なんか閉め切って冷房を効かせるに決まっていて、かといって寒い時期は寒い時期で暖房が要るからやっぱり窓は閉まっているはずで、当たり前にもほどがあるけれどあらためて、こうやって夏のくたばっていく日々のいくつかを外にも出ず、開けっぱなしの窓からそそぐ空気と音のなかで過ごしてみると、一日中窓を開けていられる時期のみじかさはけっこう意外に思われてくる。

 実家にはエアコンがなくて、夏場、日の沈んでからはどこの窓も開けっぱなしで、家族がそれなりに頻繁に出入りしていたので、ただのマンションのくせしてやたら開けた家だった。数日だけでも帰省するとその感じはやっぱり前より強くなっていて、その分、帰ってきたこの部屋の閉鎖性もまたやたらにめだった。最近は友人の出入りが結構あったせいか、ここがぼく個人のものとして外から切り離された場所だということをうっかり忘れそうになっていて、それを思い出すと越してきてすぐのさっぱりした気分が帰ってくる。ぼくはあれを、てっきり実家を出て状況が変わって世界が広くなったことへの解放感なんだと思っていたけれど、違ったらしい。これは部屋の閉鎖性に対する安心だ。

 なんの作物を育てているわけでもないうえ、べつに食べ物の旬とかも意識しないで暮らしている身からすると、秋は実りの時期だという実感はちっともなくて、涼しくなるとかさみしくなるとかそういう程度のことしか感じられない。そういうのは秋の来るにしたがって消えていく夏を引きずっての思いでしかないから結局、ぼくは八月に充満していた何らかを、なんだかんだ言って結局は惜しんでいるだけで、秋についてをやっぱり取りこぼしている。くだらない感傷が場所をとるせいで、ちゃんとした情趣を損なってばかりいる。去年よりはずいぶんマシだよなとか、そうやって以前のことと比べることのみによって現状を肯定してしまうのも、夏を惜しむ気持ちをそのまま秋の印象と取り違えることと何ら変わりはしない。

 現在の時間や現在の自分を過去や未来と比べたりすることなく、それ単体で肯定する、みたいなことをちょっと前から意識しはじめていて、そういう状態で読む本や見る映画のなかに見つける救いはぜんぶそういう形をとっている。だからって小説をそういうことを意識したうえで書けるかっていうとそうじゃなくて、やっぱりまた1000字ちょっとで止まったりしているんだけど。もうずっと、なにかしら書くべきだと思ってしまってばかりでどうしようもない。けっこう困っているけど、高校のころとかみたいにそれ以外の行為がぜんぶしょうもなく思えたりはしていないのでまだ健全だと思う。書きたいなあと思いながら、それはそれとして料理して洗濯して寝ている。今は寝ていない。寝ないと。

近況

 なんとなく昼間見始めた映画が、ついたり消えたりして九時ごろ、ようやく半分くらいまで行ったあたりで、演出上の都合ではさまれた静けさに、釣銭が6枚落ちる音と缶のプルトップが起きる音とひとの咳、爪、たぶん人差し指の、が薄っぺらいアルミ缶をかつかつ叩く音が滑り込む。映画の再生を止める。

 それがぼくに聞こえたのはコカ・コーラの自販機がマンションの道を挟んだちょうど向かいにあるからで、映画を見ていても気づいたのはこの部屋の窓が開いているからで、窓が開いているのはクーラーが要らないくらい今晩が涼しいからで、涼しいのは夏が終わろうとしているからだった。

 八月は料理と飲酒ばっかりしていた気がする。何をした記憶が残っているわけでもなくて実際に何にもしていないんだろうけど生活の実感はこれまでになく色濃く残っていて、これはこれで、と思う。

 だいいち、会話の流れもなんもなしに思い出そうと思って思い出せるほど整った記憶になる出来事になんてなかなか出くわさないから、整った記憶がもしあるとするならそんなのはたいてい、あとで勝手に整えたもののような気がする。べつに思い出さなくて済むなら過去のことなんか思い出さなくったってよくて、重要なのはやっぱり過去からここまでに続いて寝そべる生活で、それがあってきて今もあるのを思い出すのに、こういう夏の夜の冷えた部屋の中はたいへん適していて、酒を飲めたらもう完璧に近かったけれどあいにく断酒で、ぼくの生活はそういう具合にしか今のところ厳しくない。ありがたいことに。