眠りの浅瀬でカエルを茹でろ

私の寝室の枕元には、寝る前に本を読む用の電気スタンドが置かれているのだが、ここ1ヶ月ほどそれの調子が悪い。電球を変えても直らなかったからたぶんスタンドの接触か電線の具合の問題だと思うのだが、スイッチを入れても一瞬パッと光って消え、点けなおしても数度の点滅の後また消える。電球を押さえつけたり、コードの位置を調整したりねじれを直したりしてもう一度試して安定して光り出したとみえても、数十秒ですぐ消える。

そんなんなので毎度毎度、電気スタンドがちゃんと点灯するまで、何回か電球やら電線やらをカチャカチャやったりスイッチを入れたり切ったりする必要がある。

昨日の寝る前もそれをやっていたのだが、そのときふと、点灯の試行回数が一ヶ月前よりも明らかに多くないか、ということに気付いた。最初にスタンドの異常に気付いた時には数度で済んでいたはずのことを、もうそのときかれこれ5分近くカチャカチャパチパチやりまくっていたのだ。

それに私がそのときまで気付かなかったのはおそらく、ここ1か月で徐々に徐々に電気スタンドが点灯しづらくなっていったからなのだろう。人間、緩やかなものなら状況の変化には気づきづらいものだ。と、茹でガエルの話を思い出していた。*1

あれは本来会社なんかのビジネスの場において使う言葉らしいけど、毎日の生活を送る人間というものもまた、この哀れなカエルにかなり近いと思う。

私みたくどれだけ平坦な人生だの生活にハリが無いだの言いながらただ冷めていくだけのぬるい鍋に浸かっているつもりでいても、その温度は私の気づかないうちに、私を殺さんと上がり続けている。ほらまた指の先の爪は伸びて前髪は驚くべき勢いで私の視界を侵蝕し、それとはまた別に視力はどんどん下がり、積読冊数とBDレコーダーの録画時間と母の体重は増えたり減ったり、私の大学受験と姉の就職(あるいはフリーター化)は着着実に近づいて、3月だってあと3日で終わり。そんなこんなを繰り返すうちに、どんなに遠く見えたって、死の訪れる日はちょっとずつでも近づいてきている。

生活の水に浸かる人間というカエルの悲しきは、最初から自分の入っている鍋が火にかけられていることを最初から知っていることと、だからってそこから飛び出せば死んでしまうこと、それを有益と思えないのならただ自分が茹で上がるのを待ち身を焼き意識を奪おうとする熱にひたすら耐え抜くしかないことだ。

カエルがせめて幸せに茹で上がりたいと願うなら、自分がこの鍋に浸かっているのは嫌々やらされているのではなくて、自分がそれを望んでいるからだ、と思えるようになることじゃあないだろうか。思い込むのではなくて、心の底から自然にそう思えるようになること。自分にはそんな日が来るだろうか、この最低で不満で地獄みたいな日常を、自虐的な薄笑いも浮かべないで愛せる日が。ちょっと想像つかないけど。

昨夜の私はまあ大方そんなことを考えながら、10分に及ぶ電気スタンドとの格闘の末についに諦め、そして目を閉じねむるまでの間に、母に電気スタンドの買い替えを提案することを決意したのだった。

*1:カエルを2匹連れてきて、片方は熱湯の入った鍋に、もう片方は火の上の水の入った鍋に入れると、熱湯に入れられたほうはすぐに逃げ出すのに対し、水に入れられたほうは徐々に温度が上昇していることに気付かないまま、茹で上がって死ぬまで浸かっている、という話。実際のところ、水温の変化に敏感なカエルは温度が上がれば上がるほど激しく逃げ出そうとするらしいが。