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村上龍『 限りなく透明に近いブルー』を読みました

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読書メーターにだいたい大まかには書いたんだけど。でもちょっとあれだけの文章で済ませるのも勿体ないなと、いうわけで以下感想。

 

村上龍の著作が共有する核は、このデビュー作の中で既に完成しているんじゃないか。ぼくは村上龍の小説を読むのはこれが初めてだけど、読み終えて、なんとなくそう思った。というかここにないものまで書けるのだとしたらやばい。こわい。人類として、この作家に書けるものはここに既に全部出そろっているのだと思いたい。

ここに完成している村上龍作品の核、それを「 肉体性」とでもいうべきだろーか。リアリティを超越して現実の感覚に肉薄する、文章の熱量と情報密度だ。

たとえばいま、ぼくが痛みを感じたとして。それを表すには最低「 痛い」の二文字だけでいいけど、でもその二文字のもつ意味内容は、ぼくが実際に感じた感覚とはあまりにもかけ離れたものだ。どんなふうに痛い?どこが痛い?そもそも痛いとは何か?言葉と実際の感覚、両者の差異を埋めるには、そういうふうな疑問を発生させんべく文章を無限に書き並べていくしかないわけだが、この『 限りなく透明に近いブルー』で、村上龍はそれを、ぎりぎりまで切り詰めた最低限のセンテンスを用いてやろうとする。必然、文章一単位あたりに含まれる情報量が高まる。だからただ数行読んだだけで在りえないほど様々な感覚が喚起されて、それを受け取るためには多大なエネルギーが必要とされる。たぶんそのせいだろう、読んでいると冷や汗が出て動悸がして体温が上がったり下がったりして、とにかく疲れる小説だった。

 

で、物語について。ぶっちゃけ平坦で退屈だった。エンターティメント性が皆無。若者たちの退廃、堕落した生活を描いてはいるがそこに「 現代の若者に対する警鐘!」というようなメッセージ性はみえなかった。人間ドラマもドラマティックな展開も、ハラハラする活劇もここにはない。一応ストーリーの筋というようなものはあるけど、それはすべてさっき言ったような感覚の描写と、それを効果的に読者に伝えるための雰囲気づくりを行うための口実と呼んでもいいようなものなんだろう。セックス、ドラッグ、暴力。それらが喚起する強烈な感覚と、どうしようもなく退廃的で閉塞的、鬱屈として耽美な空気感。この『 限りなく透明に近いブルー』で、村上龍が描きたかったのはそういうものじゃないか。

 

「 文学は文章を読むもの、雰囲気を楽しむものだから、本来文学に物語はないべきだ」みたいな話をどこかで聞いたことがあるけど*1、その話に沿って言うならこの小説は「 本来の文学」にかなり近い。物語性がここまで薄い小説なんてふつう退屈で読むに堪えないもののはずなのに、これじゅうぶんに読める文学として成立している。それはやっぱりひとえにさっき言ったような描写の密度のたまものだろう。というかもしかして、ここまでやって初めて文芸作品は物語性を薄めることを許されるんじゃないか。小説ってむつかしいなとあらためて思う次第。

 

村上龍はほんとうウィキペディアで記事見たらぎょっとするくらい多作な小説家だけど、たとえ彼が描いた作品がこの『限りなく透明に近いブルー』一冊だけだったとしても、その名まえは文学史に刻まれたはずだ。村上龍という名まえが気になるのなら、まずはこれを読んでみるべきなんだろう。少なくともぼくにとってはそれがとても良い選択だった。

*1:書き終わってから思いだした。父親のうんちくだった。最悪。