逃避

昼休み、学校の食堂裏の自販機にもたれかかってぞろぞろとコーヒーを飲んでいたら見覚えのない顔の女子生徒が半笑いで、「 おぼえてる?」なんつって話しかけてくるから、いやおぼえてるどころかまずしらないしどなた?なんでぼくの名まえ解るの? 怖いよ。と。思いながら曖昧に相槌打つとどうやら昔やってた習い事( たぶん書道教室かなんか)でそれなりに仲良くしていたひとだったらしく。ああおぼえてるおぼえてると口から滑り出るように少量の二酸化炭素とともに超濃度の嘘が漏れて、後はあいまいに笑いながらことばを交わし、結局相手が誰だったのかわからないままに会話は終了した。バラエティ番組だのクラスメイトの雑談だのから三ケタ単位で聞いてきた「 あるある」だけど、こんなにいやな気分になるもんだとは思ってもみなかった。ぼくと違ってふだんからコミュニケーションを積極的にとっているひとたちは日々こんな苦痛と闘ってしかもそれをネタにしたりしているのかと考えると、それもないのに毎日つらいような苦しいような気分で生きている自分の精神の脆さを実感して、いやになる。

 

最近、こころが摩耗している気がする。外に出るとき、とくに学校の休み時間はずっとイヤフォンの騒音で武装してないと一瞬で霊魂がだめになってしまいそうだ。中学のツレと頭空っぽにして遊んでいるとき以外救われた気がしない。全世界が自分を軽蔑しているような感覚、この間まで夜中限定だった感覚が、今じゃもう起きてから寝るまでずうっと続いている。時間の経過が悲しい。四月頭にブログのネタにした桜の樹が今じゃもうすっかり夏の装いで、排水溝かどっかに蟠って茶色く腐って死んだ花びらのことを考えて泣きそうになる。毎日の五時のサイレンに責め立てられている気がする。自分には感情が無いような気がして、自分自身への軽蔑と世界への呪詛がその代用を果たしていると感じている。自分はこのままじゃ駄目だってことは分かっていて、っていうかそれしか分かっていなくて、じゃあなんで変化しようって動かないのかって考えたらこういう風に鬱屈とした精神の自分がじつはちょっとカッコいいと思ったりしていて、それが気持ち悪くて消えたくなってしまう。最近やっと出てきた思春期の焦燥が、他人への嫉妬を自分の生活の虚ろさへの嫌悪に変質させてそれと混ざり合ってどうしようもない気怠さになって、こころにずっと居座っているんだった。

ツイッターにアニメや本の感想だけじゃなくて鬱屈をぐにゃぐにゃっと書き散らすようになったのはたぶんそのせいだろう。逆にそれがこころが摩耗してきている原因だっていうんなら即刻ツイッターをやめたほうがいいけど、そうじゃないと思いたい。じぶんの積極的な行動がこのこころを悪い方向へみちびくことなんてないと信じていないと生きてなんていられない。物質的な豊かさも他人とのつながりも期待していないぼくが唯一生きる意味としてよすがにしているのはこころをよりよくしていくことなのに、それさえできなくなったらもうただ学校行って帰ってきてラノベ読んで自慰行為にふけって寝て起きるだけのマシーンに成り下がってしまう。いやまあ、いま現在のぼくだって外形的には結構それに近いけど。

あれ、何を書こうとしてたんだっけ。忘れてしまったけど書くことはもうないような気がする。あーだるい。っていうか目下、明日の試験がめんどくさい。それが終ったらこれも治るんだろうと、とりあえず信じておきたいけど。でもこういう気怠さのピークは毎年夏休みだからむしろこっからこの鬱屈は膨らんでいくんだろうなってわかっているから信じきれない。旅行に行きたいと思う、どこへでもいいから。この世の外なら。