雨に唄えれば

雨は昼過ぎに数十分だけ、どしゃっ、と降った。それが止んだのを見はからってぼくはスピーカーの電源を切って、部屋の換気をする。音楽を流すときは近所迷惑にならないように部屋を密閉しているので、ながいこと聴きつづけていると部屋が蒸してくるのだ。開け放った窓から、涼しい風に乗っかって大雨が降ったあとのあの甘いにおいが流れ込んでくる。なんのにおいなんだろう、と考える。樹液とか花の蜜とかが、雨水に溶けて蒸発したんだと、てきとーな仮説を立てた。こんなことをグーグルで検索するのはちょっと、野暮だろう。自然にまつわる謎はほかの謎とくらべてもひときわきれいだから、できるだけ多くそのままにしておきたいと思う。

雨のことはそんなに好きじゃないけど、雨の日、家にいるのはすきだ。とくに雨の音がいい。家のすぐそばの木の葉っぱに雨滴が当たってぷつぷついっているのを聴いていると、きのう、小説を書いて出た疲労がちょっとずつ癒されていくかんじがした。

小説を書いたのは、中学の時いきなり超スケールのバトルラノベ*1に挑戦して数日で砕けちったとき以来だった。疲れた。心身ともに憔悴しきってしまった。しかもできたものの完成度はそれに釣り合わなかった。やっぱり創作にはあんまり向いてないんだなと再確認できた、その一点を見ればいちおう、意味のある行為ではあったけど。もう一度やるかって聞かれると。うーん、やらないよな。疲れるのはきらいだ。

まー、もちろん楽しくなかったと言えばうそになる、描写を重ねて重ねてガチャガチャ組みかえて、という作業がおもしろくなかったわけじゃない。でもやっぱりどれだけ薄いもの、ちいさなものでも、物語をつくるのはつらい。ひどくつらい。自分の体の肉を削り取って自分の手で成形しているような感覚だった。ぼくは小説がすきで、文章を書くのもけっこう楽しく感じるから、ついつい小説を書きたがってしまうけど、苦手な物語づくりが必要になってしまうからやっぱり、体力的にも精神的にも控えた方がいいと思う。物語をつくる必要なく文章を書きなぐれるブログが、やっぱりぼくには合っている。

あと書いてる最中、気が散るからって音楽かけないで無音の部屋に籠っていたのもよくなかった気がする。静けさが人のこころを傷つけるってはじめて知った。毎日ホームルームを騒がしくするのに必死なクラスメイトの気もちがすこし、分かった気がした。沈黙は苛烈だ、そのなかにいる人間の思考を内側へ向ける、その力があんまり強すぎる。

かといって、ざわざわとした、無規則な騒がしさは思考力を奪って、それもまた精神にはよくないから、ある程度の騒がしさと秩序のある音楽にぼくは精神の安定をもとめるんだろう。でも音楽を聴いていたって、製作者の意図を邪推してしまったりなんらかの感情を喚起させられたりしてしまうから、精神の安定にはやっぱり至らなかったりする。

だからまー、もの思いにふけるには、静かすぎず、規則的で、自然のものだから邪推する意図もない、雨音がちょうどいいんだと思う。ちょうどいい量の思考が削がれて適度に自分のことについて考えることができて、疲弊したこころが修繕されていく。あと何回、雨の日を過ごしたら、また小説が書けるようになるんだろう。それはちょっとだけ楽しみで、けっこう怖い想像だった。

*1:ちょっとだけワードに設定がのこっていた。禁酒法時代の舞台設定で元殺し屋のおじさんと人造人間の女の子が何でも屋やる話で、あー、なるほどね、オーケーオーケー、はいはいはい。というかんじだった。