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逃げろ

夜中の自己嫌悪の膨張がいよいよ耐えがたくなって、勉強しようって倫理の教科書を開くけど、机に向かうのがつらいので、枕を持ってきて床にひっくりかえって読む。円い蛍光灯の光に透かされた指のさきの爪が思ったより伸びている。こないだ切ったばっかりなのにって、つく溜息が前より長くなっている気がした。

 

受験が近づくごとに時間の流れは痛烈になっていく。こうやって記事を書きちらかしている間にも一秒一秒受験対策の時間が削れていること、思うたびにどうしようもなく悲しい。これまでの勉強量があまりに少ないので正直食事の暇まで惜しむべきなんだけど、ぼくの怠惰はどうせ惜しんで作った時間をさらに惜しいことにつかうに決まっているんだ。

なので、悠々と暮らしてる。きわめて。茫漠とした将来の不安を抱えてるからそうせざるをえない。いや、別に不安は茫漠としてないか。そんなの言い逃れにもなってない。不安の種だけははっきりしてるんだ。勉強時間と、怠け癖。

 

受験勉強のことを考えるともうひとつつらいことがある。本を読む、音楽を聴く、散歩する、みたいな精神にとって大切、っぽい行為の価値がおしなべて、勉強の前にゼロに等しくなること。

勉強して心身の健康が損なわれたら本番で実力出せなくて元も子もないから、とか言い訳を用意してそういう行為につかう時間をつくってみるけど、受験への不安でそれだって手につかなくて結局なにもしない時間が増えて精神の衛生状態はどんどん悪化の一途をたどってる。

だいいち勉強以外のことをやめたとして、健康が損なわれるほどはたして自分は勉強できるのかという話。疑わしい。はなはだ疑わしい。かといって勉強しなければ健康が損なわれないかっていうとそうでもない。どうせ不安で押しつぶされるに決まってる。

たぶん、結局勉強に打ちこむのがいちばん精神にはいいんだろう。でも、それがわかったからってじゃあ勉強だと気合が入るなら、今頃こんなに落ちぶれてはなかったと思う。学力に限らず、いろんなこと。芸術とか、人格とか、人間関係とか。

 

話は飛ぶけど倫理の教科書でいま西洋哲学の単元を予習してる。どうせ学校の授業じゃやらないしやってたって聞かないから仕方なく。英語からの逃避ってのもある。

で、読んでるとハイデッガーとかウィトゲンシュタインとか見たことある名まえ(かっこいい)と顔(こわい)がたくさん出てくる、んだけど興味がぜんぜん湧かない。哲学は何度かかじろうとしてきた分野だけどそのたびに挫折してる。

なんか、苦手というか、あんまりいまのぼくの精神が必要としていないのかもしれない。経験とか、実存とか、知らんし。そしてぼくにとって知らないことというのはこれまで知らなくても問題のなかったことであり、そのうちのほとんどはこれからも知らなくても問題のないことである。というわけでぼくが哲学について何かを知る必要はない。証明終了、あと思考停止。

というかそういうのって究極的には自分で考えていかなくちゃいけないことで、どの哲学者の思想も出発点は自分のための思索なんだろうし、他人のためのものである限りはそれをぼくが鵜呑みにするわけにはいかず、鵜呑みにできない以上はそこにあるのは知らないおっさんおばはんの勉強ノートだ。そんで複数のおっさんおばはんの勉強ノートを要約したのがぼくが読んでる倫理の教科書である。なにそれ?

いやまーどれもえらいおっさんおばはんだしその話を理解して自分なりの思索につなげていくのはめちゃくちゃ大切な行為なんだろーけど。でも鵜呑みにできない話を理解するのは正直かなりたるい。そのあと考えるのはもっとたるい。

あ、結局やる気ないだけか。

まー全国高校生マークシートぬりぬり選手権、またの名をセンター試験、に向けたうっすい勉強すらも耐えがたいガキの学問に対する姿勢なんてのはこんなもんだ、とか、あー、また言い訳が出てる。直さなきゃいけないんだけど。