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技法

昨晩えらく陰鬱で混乱した記事を書いてしまったので今日は混乱しながらでも比較的ゆかいなことをかいて記事にしようと思う。

ひどく弱っちいぼくの自意識でものごとを左右させるのはひどくむつかしく、逆に自意識のほうが左右されてしまうのが常だ。自分で書くブログの記事しかり。

 

きのうみたいにひどく暗い気もちになればそりゃ、「 自殺」の二文字が頭に浮かばないでもないんだけど。どうせ、まず死んだりしない。

理由は、死ぬとどんなかんじとか、死んだあとどうなるとか、そもそもどうやって死ぬとか、まるでわかってないからだ。そんなあやふやなものに縋るくらいなら自意識の問題はおろか生活苦とか病苦とかに耐えるほうがマシかなと、いまは思えてる。死ぬのはたぶん、そこそこ損だ。

ようは損得計算ができてる間はぼくは自殺とかしないんだろう。強烈な感情のまえに正気を失ってない間は。たぶんそういうこともない、死にたいとかこんな自分やだとか、そんなに強く思えないし。

自己嫌悪まき散らしながらそれでも死なないし改善する気もないのはやっぱりそこまでいまの自分が嫌いじゃないから。百点満点で好きが二の嫌いが四くらいの感じ。端的に言ってどーでもいいんだろう、って、書きおわってから気づいたけどこれ完全にうそだ。好き九十六の嫌い百とかだ、たぶん。自分のことだけはどーでもいいと思えないのがぼくか。いやだなあ、いやだなあ、あ、また暗くなってるな。話題変えよう。

 

勉強がいやすぎて暇つぶしに気になった言葉を適当に調べまくっていたら、ぼくのいちばん好きな詩人、田村隆一がぼくの生まれた年に死んでいることが判明した。

一九九八年って、どんな年だったんだろう。母のおなかのなかで、生後一二ヶ月のまだ開かない眼で、ぼくがなにか感じていたか。それをひとかけも覚えていない違和感は、薄気味わるいけど、どこか安心するものだ。ぼくの生きた十八年間のあいだにひとつでもはっきりした断絶があるなら、やっぱりぼくはどこかでちゃんと変わっているってことなんだろう。それがいいかわるいかは、考えないでおく。今はたぶんそうするべきなんだ。

 

田村隆一の詩は、読んでいて表層にあらわれるうつくしさと根底に住まう苛烈さのバランスが、ぼくのあこがれるものにかなり近いと思う。稲垣足穂梶井基次郎とはまた、違ったかたちで。生まれかわるなら、「 言葉のない世界」のなかの一節がいい。

そういえば田村隆一、かなしいものをうたうときの不思議なポップさは、people in the boxの歌詞にも近いものが見えると思う。「 ニムロッド」に「 立棺」の影をみるのは邪推か。うん、邪推だな。

 

PITBといえば。四日前通販で買ったCalmly SocietyとLost Tapesが、現在おそらく運ばれている最中だ。早く届けばいい、というかなんで一日二日で届かないんだ、といらいらしてしまうのはAmazonのスピードに慣れすぎたからか。

よくない傾向だろうな。そういうの。最近は本屋やCD屋でも「 これAmazonにぜったいもっと安い中古の、あるよな……」と思って買うのやめてしまったり。生活の良しあしに直結してこない金なんだから、衝動的に使ってしまっていいはずなんだけど。そうしたほうがすっきりするし。お金を有効に使おうとする姿勢なんてのはどうせ自分で稼ぎはじめてからしか確立されないものなんだろーし。

 

最近また小説を書いてる。文芸部で出すやつだからネットのほうに公開するかどうかは微妙だけど。テーマは部員全員共通で、「 神」。あいてて。あいててて。

物語要素はまえのやつよりちょっと強くした。いちおう、向上心だ。

ブログにしろ小説にしろ、文章を書いていると数学の問題を解いているときと似たような感覚に陥る。考えを整理しようととにかく書きつらねてみるけどむしろそのことによって問題は前よりむしろ複雑になっていて、頭の混乱度合はさらに増したように思われるんだ。しかも数学の問題ならいちおう答えっていうのがあるのに、ぼくの考える問題には模範解答どころかどういう答えにたどり着くべきなのかも、どういうものが答えと呼べるのかも示されていないからとにかく過酷だ。

ただ、数学の問題だと一個プラスとマイナス間違えるだけでそのあとぜんぶオジャンだけど、文章を書くときは間違いや破綻はむしろ味につながったりする。だからまー、すぐ慌ててポカミスをやらかすぼくは文章を書くほうが好きなのかなと思う。センター数学でも間違いを「 味」として加点してほしい。

あー、でもこーいうの実際に莫大な量の文章書いてそれでメシ食ってるひとが言わないと説得力なくてダサいな……。もっと書かなくちゃな。ぼくが大文豪になったときのために上のハズい文言は残しとくべきだと、思いながら句点をうつのである。