旅行

 そこから帰るのには六時間かかる。各停しかないローカル線をつかって新幹線の通る駅まで、おなじ電車に三時間乗り続ける。中学生だか高校生だか、集団で乗り込んできて人口密度が増したから、知らない街で買った真新しいシャツがまた汗に湿った。網棚の上にはいつも持ち歩いているのより一回り大きいリュックサック、まだいまいち使いなれていないデジタルカメラのなかの写真は、あとで見返してみたらどうして撮ったんだか見当もつかないようなものばっかりで、しかもいまだに頻繁にピントがずれる。それでも段々マシになってきてはいて、何かそういう技能の上達なんてものすごく久々の体験だから、写真を撮るのはとても楽しい。

 高校生のときは写真を撮る暇があったらその場の空気をどうのこうの、みたいな理屈をこねまわしていたけど、今は写真を撮るおかげで知らない場所に行くときのおもしろみが新しく増えていて、それを理由に夏にいろいろ旅行に行くのも楽しみだったりする。まえの土日の遠出も、それのおかげでずいぶん楽しくなった。光景を写真にしようとすることは、風景や食事や会話や考え事の邪魔にはぜんぜんならない。わからないままにとりあえず否定してしまっていたことがとにかく多すぎる。

 大学入ってからこっちの四か月はそういう、これまでないがしろにしてとりこぼしてきたものの回収みたいなことばかりしていて、結局はそれが時間のかさなることなのかもしれないとか最近は思うようになっている。

 

 金曜に授業をさぼってつくった時間で埼玉にある父親の家へ行って、そこから車で父親と一緒に長野のほうへ行って、土日はそこで過ごした。やたらうまい飯やら酒やら、普段なら絶対に会わないような珍しいひとにも会って、それで安直に視野がひろがるとかいうつもりもないけれど、少なくとも今自分の生活がとらえている領域の狭いことと、それがいくらでも広げる余地のあることくらいはわかって、まあとにかくずいぶん気が楽になった。

 なによりうれしかったのは以前から知っている父親の知り合いのおもしろさが、大学に入っていろんな人とかかわるようになったからだと思うんだけど、前よりも鮮明に感じられるようになったことだった。そういうひとたちの提示する、どこに行けとか何やれとか、そういう可能性から感じられる魅力も前より増したように思えた。

 経験というのは大事だなあと、そういう言い古されたことが言いたくなる。誰でもいうことも言えないくせして誰もいえないことを言おうとするにはぼくはいろいろ普通すぎる。それが最近やっとちょっとわかってきたんだった。