言いたいことがあんまりない

 これは本当なのだけど言いたいことがなくて、ブログの更新はこの通りいつぶりだかわからない。twitterも最近あんまり動かしていないし、人と会っても中身のない、文脈任せの内輪ノリみたいな会話しかしない。情報の行き来がない会話しかしていない。情報の行き来がないということが人との会話の本質なのかもしれないとかいうことをちょっと考えるくらいには、情報の行き来がない会話しかしてない。本質。

 とにかく、情報の行き来がない会話のみしている。

 文章を書きたいとは時々思っていて、時々どころかかなり頻繁に思っていて、でもワードだの原稿用紙だの開くと何にもわからなくなってしまうというか、書くことなんか何にもないことがわかるというか、確実にそのどっちかなんだけど、とにかく結果としては、何にも書かない。

 書きたいことはわりかしたくさんある。最近やっとわかったけれど、書きたいことと書くことは別だった。言いたいことと言うことはもっと違っている。言うこと。これは説明がものすごく難しいのかもしれないけれど、ぼくの、言うことは言いたいことでも言えることでも言わなければならないことでも言ってしまうことでもなくあえて言えば近いのは言わされていることなんだけどそれもやっぱり違っている。今のはちょっと言い訳っぽかった。

 文章を書くときや書かなきゃと考えたとき、ぼくはたいてい何かと何かをつなげようとしていたんじゃないかと思う。この映画とあの音楽。この人と自分。さっき起こったことと、生活の展望。自分と自分の文章。関係性を見つけたりでっち上げたりして、とにかくつなげる。そのつながりは言葉にした時点でなにかもうだめなのかもしれないが、だめなつながりこそ残しておかなきゃとか、誰か思うんだろうか。

 話の流れからは多少それるのかもしれないけど最近周囲で恋愛による負傷者が出た。けっこうみんな恋愛によって負傷して恋愛による負傷者になっていく。ぼく自身も自分の恋愛による負傷がゼロだとは思えない。恋愛って少なくともぼくの知っている中では人間どうしの直接的なつながりのもっともたるものなんだけど、どうして負傷の理由がみんなそれなのだろう。人間と人間が直接結びつくのは無理があるのだろうかやっぱり。

 べつにそういう漠然としたことを実際に考えているわけではなく、もっと具体的な嫌さのあるものごとで悩んでいるんだけど、ネットで書くことじゃないと思うので、ここでは漠然としたことで悩む。低い草の生えた斜面で星空を眺めておく。

 インターネットとか金とか毎日の飯とかなんでもいいが、やっぱり人間と人間のつながりにはなんかしらの仲介があったほうがいいんじゃないか。そういうことにしておくと、この文章のまとまりもちょっと出てきて、いい気がする。何かと何かがつながることそのものに絶望するといよいよ何も言わなくなるような気がしている。絶望? つながることは基本いい。文章が書けるし。高校のときのぼくは文章を書くたびになにかダメージを受けていたような気がするけど、ハルジオンの茎と焼きそばとか、でもつなげて遊んでいても害があるんだろうか。