出先の暇の話

 いま読んでる吉田健一の「乞食王子」で、都会はどんなに音響的に騒がしくてもひっそりかんとしている(ひっそりかんとしているというのがすごくいいと思う)けど田舎は自然のせいでとにかくうるさいみたいな話があって、今ちょうど父親に連れられて長野の山奥に来てたしかにそうかもしらんなというようなことを思う。虫も風も騒がしいったらない。ついでに言うと父親も騒がしい。どうにかしてほしい。

 今年の夏休みは小刻みにあちこちへ行ってるからとにかくちっとも金沢にとどまれていない。お盆前後に帰省して九月頭は友だちと温泉旅行に行って今の長野行きから帰ったら恋人とまた出かけるしそれが終わったら今度はサークルの合宿とそこからそのまま帰省で帰ってきたらちょうど休みが終わってる感じになる。あわただしいことこの上ないが移動やら何やらで結果的に暇な時間は増えてるので読書やら書き物やらが進んでいたりしてそれはそれで嬉しいことだけどとにかく始終あちこちに動いて今日はどこで寝るのかとか飯はどこで食うんだろうとかシャンプーが変わって頭がガシガシするんじゃないかとかあれこれ細かい心配があるもんであんまり心休まる感じはしない。

 そういえば二コ前の記事はちょうど旅先でゆっくりできた話だった。でもあっちはなんにも目的なく行ったからよかったけど、この休みの旅行はどこに行ったって割合なんかしらやることがあったりする。と思うとふっと一日まるまるノープランの日がぷかっと浮かんできてしまったりもし、そうするとああ明日は何をしたもんかなとせわしなく考えてしまうぼくはどうも暇な時間はあんまり得意じゃないらしい。

 そういえば高校の頃は受験勉強というとにかくやらなきゃいけないことがあって暇な時間が暇な時間でないのでずうっと神経をすり減らす思いをしていたり読書がやたらにはかどったりしていて、それで今はじゃあ勉強をしないでいいのかというとそういうわけでもないんだけど、さきに控えてるのが就活やら卒論やら、何にどう備えればいいのかいまのところぜんぜん見当が付かなくて考えると途方に暮れてしまうから考えないようにしているものごとしかないもんだから暇な時間がそのまま暇な時間としてどかんと座っている。

 中高生のときは部活に勉強にあれこれ忙しい連中から自分を切り離す手段として暇なのをやたらと強調してありがたがっていたように思うけど、今はもうそんなことしたいとも思わないんだし、暇な時間はできるだけ避けるというか、そこまでしなくてもいいけど、暇になったらああ暇だなあ困ったなあって素直に思えるようにしておいた方がいいのかもしれない。どうもただぼんやりしているのはあんまり得意じゃないみたいだし。