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 カレーを作るたびに、しこたま入れた玉ねぎのすがたがまだ残っている、もっと時間をかけて昼間から煮た方が、と思うんだけど、美味しいと言ってくれるので、実際にうまいので、まあいいか、と思ってなあなあにしてあったりする。さいきん象徴的だなと思ったのはなんかこういうことだ。だからたぶん最近はそういう感じの日々なんだろう。

 ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」をよんだ。一人の人間が日がな考えていることがすべて書いてある感じだったからまったく全貌がつかめないんだけど、なんだかとても勇気づけられた気がした。人生になにか、意味や、ルールや、そういったものを見出すことの、不毛さも危険さもわきまえたうえで、それでもそうやって、それそのもの、から逃れながら生きていってもいいんだと思った。全然違うかもしれないが、まあ、また読みかえせばよかった。

 あんまり関係ないのかもしれないけど「筺底のエルピス」を既刊すべて読んだ。歴史や伝承のとてつもなく広い範囲にみえるおぼろげな法則性が、それは実際に必然なんだか偶然なんだか、詳しくないから知らないが、とにかく同一の設定のもとにまとめ上げられていく手法には毎巻驚かされつづけた。こういうのをこそ「世界観」設定とよぶんだろう。

 そういえば「きことわ」をじっくり読み返す機会ができたので、そうしているんだけど、夢がこれだけ現在らしさ、というのか、見たさきから過ぎてゆくかんじ、をもって書かれているのはもしかしたらすごいことなんじゃないかと思う。つねに「こういう夢を見た」という状態でしか認識できないはずのものが、雨が降ったり、電車に乗ったり、という現在の過ぎかたと同じように過ぎていく。これは小説でしかできないことなのかもしれない。

 なにか、とか、なのか、とか、やたら多い。さいきん、ここ半年くらいで、コミュニケーションに支障が出るくらい断言を避けるようになっていると思う。進路も、小説のことも、ぼんやりしたものをぼんやりしたまま保持している。さいきんはそれがいいと思っている。