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四月

 今日は一限から授業で、眠いし寒いし行きたくないんだけど仕方ないのでぼちぼち大学まで自転車を漕いでいた。大学構内に入って、桜の木の並んで立っている下り坂に差し掛かり、さっきまでの長い上り坂で乱れた息を整えて視線を上にあげたら、どの桜もやたら幹が黒々としているのを見て、ああ夜に降った雨で湿って黒くなっているんだなと思って、ぼくはなんとなく感動した。夜に雨が降っていたということ自体は湿った道路を見て気づいていたけど、それが実感できたというか、夜はぼくが眠っているだけの時間じゃないんだとか、ぼくが眠っている間に流れている時間も時間なんだとか、だいがいそういうことが雨を通して理解されたような感じがしたのだった。時間が流れているということはそれだけで感動的なんだなと最近思うようになった。それを実感している間は、料理をしている時でも歩いている時でもなんでも、とても気分がよくて楽しい。

 

 この部屋に移ってきて二週間弱経って、やっと少しずつ寂しくなくなってきて、そのことによってぼくはこの部屋に暮らしはじめてから感じてきた寂しさというのが母親の不在であるとか一人でいる自分、友達との距離なんかに対するものではなくて、まだ誰のものでもないこの部屋の空虚さに対して感じていたものだったということに気づく。家具や家電が集まってその位置が定まり、ぼくの時間が少しずつ空間に溶けだして、ようやっとこの部屋も家らしくなってきた。ぼくの生活に流れる時間とこの部屋に流れる時間の境界線が薄まってきたんだろうか。
 大学は何かとややこしいことを言いつけて精神に負担をかけてくるけれど、それはそれとして、というかそのためにより一層、この部屋で流れる時間の流れかたが気持ちよく感じられる。単純に、自分のものでしかない空間に一日何時間も居続けられることはそれだけで晴れ晴れするほど喜ばしい。それには誰にもなにも言われなくて気楽だとか、そういうぼくが勝手に見いだしているものとはまた違った、もっとスケールの大きいところから出てくる価値というのがある気がする。

 

 いちいち文句を付けたり寄ってくる人を傲慢に選別しないようにしてみると、意外なほど順当に人間関係ができてきて、いわゆるグループみたいなのに埋め込まれたりもする。あんまり積極的には関わりたくない微妙な人が多いどころかほぼ全員だけど、こういうのは妥協しないとどうにもならないものだと言い聞かせて周囲の下劣や低俗、って言うとさすがにあれか、まあ自分とのスタイルの違い? もとりあえずは我慢している。日毎に精神が磨耗する。みんなこんなにしんどいことを毎日ちくちくやり続けているのかと、頭が下がると言うより気の遠くなる思いだ。人と交流するのは本当にしんどい。こういうときにも時間が流れていることをちゃんと実感できていないとだめだなあと思う。ぼくはたぶん、自分と風景の間とか、自分の中にしか時間は流れていないもののように思っているのだ。そういう独りよがりをなんとかしていかないとどうしようもないと思う。なんとかしていかないといけないと思う。

 たぶんエアコンの室外機とかそうでなければ観葉植物とかを置く為のものだと思うんだけど、窓から外に付きだしたベランダのミニチュアみたいな空間がある。小学生の頃帰り道に買ったコーラの缶をなんでかそこに置いて、今もそのままで、強い風が吹いて窓ガラス越しにからころ音が聞こえたときぼくはその存在を久々に思い出した。七、八年近くも置いておいてしまうとちょっと捨てるのも忍びない。今度帰省したらまたちょっと考えようと思う。

 

 引っ越しの準備のせいで部屋はこの期に及んで散らかって、持って行くもの、置いていくもの、捨てるもの、を分ける作業が昨日終わったので今日はぼちぼち片づけをしている。片づけというのはぼちぼちとしかできない。単三電池が一本転がっているのを拾って電気が切れていることを確認して回収の箱に入れるとか、そういうことを黙々とやり続けることでしか部屋はきれいにならない。不思議だ。

 ちょっとしたことの積み重ねで何かが達成されるっていう考え方がいまだにしっくりこなくて、なんかこう大きいことがドカッと来て生活が変わるものと思っている。そのせいで大学受験の勉強もちゃんとできなかったし、春からの生活にもよけいな期待を抱いている。困った。

 

 あと一週間でこの部屋も引き払って、この家を去ることになる。もう十年も同じ家に住んでたわけで、段取りや考えごとで不安の数が減るたびに寂しさがめだつ。ちょっとしたことですぐおセンチになる。どうしたもんか。まああと一週間だし、耐えれば済む話だけど。

 いつにもまして内容がまとまらない。完全に精神が乱れている。読書もいまいち興が乗らないし。本当に困っている。期待通りにいかなくてもいいからとっとと落ちついてほしい。それしか望まないことにする。

東京

 東京駅の角っこにあるスターバックスでスーツ姿と並んで本を読んでいたら、音程のないぼやぼやしたパイプオルガンみたいな音が急に聞こえてきて、なにかと思って耳を澄ませると、どうもそれは高速バスから降りて駅に一挙に入ってきた人たちの足音や声が駅の複雑で大きな空間を何度も何度も反響してかたちを失ったものらしかった。硝子と霧越しに、電波塔とビルがにじんでいて、名前を知らない通りへと大きなバスは立ち去っていく。でっぷり肥えたリュックサックが重かった。 

 

 東京は静かな街だった。音が少なかったり小さかったりするわけじゃないんだけど、騒がしさがない。雑踏の感触がほかの街と全然違って、粘り気がないというのか、ふつうならざわざわ耳に引っかかって来るはずの周りのひとの足音や話し声、車のエンジン音なんかが、ぼやっとしたノイズの集積になってさあーっと抜けていく。こういう感覚が長期間住んでいると「東京は冷たい街」という認識につながるんだろうし、ぼくも四日の滞在でそういう風に感じはじめていた。

 

 滞在中は父親の持っているマンションに泊まっていた。ぼくが小学2年生まで、父親、母親、姉といっしょに住んでいたところだ。それから10年経っていて、その間そこで父親がひとりで生活したり、誰にも使われず放置されたりしているからもうほとんど違うところみたいだったんだけど、ぼくが寝るのに使っていた部屋の襖の柄だけは記憶にある十年前のあの家と同じだった。そのことに気づいたのは二日目の夜だ。いつものことで安易な感傷に囲われてしまって、そんなものをわざわざ残している父親にちょっとイラっときた。

 いちおうそのマンションの周辺を一日目にうろついて、憶えているところがないか探してみたりもした。まあない。10年経てば街だってそりゃ変わるし、そもそも今のぼくと10年前のぼくとでは視線の高さがまるで違うから、変わってないところがあっても気づかなかったんだろう。ひとつ明確に記憶のまま残っていたのは広場にある変な形のオブジェだ。よくよじ登って遊んでいたから体のほうが覚えていたんだと思う。

 10年は長いなあと、思ったのは人と喋っているときもで、ぼくが関西弁を使いだしたのは東京から引っ越してきてからだったのであまり関西弁が完璧に馴染んでいるわけではなく、長らく相手が標準語なら標準語を、相手が関西弁なら関西弁を使っているつもりだったんだけど、今東京に来て標準語を喋る人と会話すると標準語と関西弁がけっこう混じる。生まれてから8年間東京で暮らしていたのでてっきり自分の日本語の芯のところは標準語で出来ているものと思っていたけど。そもそも芯なんてなかったんだろうなあ。

 

 帰りの新幹線は七時ちょうどで、春が引き延ばした昼がまだそこらにすこし居残っていた。でも疲れたせいか、普段の生活で言えば夜11時くらいの、もうあんまり何もしたくない時間帯の気分だった。歩きすぎて疲れたからだった。

 新幹線に乗る前に、皇居の濠の周りを2時間くらいかけてぐるっと歩いて回ったのだ。左側に松の木と石垣が、右側にはビル街が、曇った夕方の薄暗さでゆるい水色を帯びた霧に輪郭を奪われてだらだらと連なっている。その光景は東京の静寂とぴったり一致していて、ぼくはこれから東京と聞くたびにこの風景と静けさを思い出すんだと、ジョギングをする人に次々追い越されながら思った。まだ履きなれていない白いコンバースはまた少し汚れて、足は新幹線の座席の下でもまだ痛みを訴えている。窓の外にざらざら流れて、都心を離れるほどに減っていく光を見ていた。考えごとは減るどころか増えていく一方だ。ぼくはちゃんとやれるんだろうか。

卒業

 駅の切符売り場で、ぼくは財布をさがして鞄を漁っている。探す時間が長引けば長引くほど、ああぼくはかっこわるいなあと心底惨めな気持ちになり、焦るというより脱力してしまい、さらに見つけるのが遅れていく。イヤフォンから流れてくる8ビートにイラついている。

 なんで切符買うだけでこんな惨めな気持ちにならなければいけないんだろう。ひどい理不尽にさらされたときの表情で財布をポケットに、半分開いた折り畳み傘を左手、切符を右手に持って改札へ向かう。そういえば今ぼくは切符を買うとき運賃表もなんも見なかった。自転車通学だし満員電車は嫌いだし、よっぽどのことがない限り電車なんか乗らなかったと思うけど、それでも登下校で買う切符の値段は憶えてたんだから、まあほんとに、三年間という時間のどんだけ長いことか。考えるだけでうんざりしてしまう。ホームのベンチで鞄を開いて、最後のHRのきったない上履きを入れたビニール袋に、適当に畳んだ折り畳み傘を突っ込む。濡れた折り畳み傘を持ってうろちょろするのが嫌だった。あれはほんとうにかっこわるいとか言うレベルではない。

 

 扉は開いて、どろっとホームへ溶けだす車内の生ぬるい空気に最後のHRのやかましさが甦ってくる。そこからするっと抜け出して帰路についているぼくと一緒に電車に乗りこむ学生服は一人もいなくて、そのことに優越感をおぼえてしまう自分がきらいだ。二駅も乗らないのに座席に座る。

 窓の外で雨足が強まる。もっと長く教室に留まっておけばもうちょっとこの帰り道も感傷的になれたかなと、若干の後悔をおぼえたり、やっぱりそんなことないか、と思いなおしたりしていた。最後の最後で写真に映るのを嫌がったり泣いている同級生に向かって口を滑らせたりするほうがよっぽど感傷的になれなくなる。こうやってするっと帰って「あいつはそういうやつだから」とか言ってもらうほうが、まあ、なんぼかましだ。

 しかしまあ感慨もクソもない。高校生活を振り返るみたいなことはなんなら毎日やっているからいまさらするまでもない。窓外に流れていく景色はただの住宅街で愛着もなんもあったもんじゃない。というかそもそも高校にあんまり愛着がもてなかった。高校にいる人たちに対しては、むしろ意識的にそういう感情はもたないようにしていた気がする。よく分からない。よく分からなくなってきた。

 

 五分くらい、いまいち馴染みのない駅のホームで乗り換えを待っていた。寒くて、イヤフォンをつけたままマフラーを巻いたら変な感じになった。ホームの椅子に座って、文芸部の後輩がくれた雑な寄せ書きとプレゼント(布のブックカバーとペン)、卒業証書にひっついていた担任の先生からのメッセージを確認し、鞄にしまってあとは音楽を聴いてぼやっと、最後のHR、いつもより多い先生と保護者まで入って人口過密の教室で見た、なんやかんやで見慣れた顔を思いだそうとしたり忘れようとしたりした。卒業証書授与式そのものはもう徹頭徹尾寝てたので忘れるまでもない。

 そのとき何を考えていたかちゃんと覚えていない。なんか、三年も同じところにいればぼくみたいな社交性に欠けた人間でもいくらかの人間とはかかわりが生まれて、そういう人たちはぼくに、良かれ悪しかれ多かれ少なかれ、まあ何らかの感情をぼくに向けてくれていたはずで、でもそれをぼくはぜんぜん感じ取れなかったなとか、そういうことだったというのはなんとなくわかるんだけど、そういう事柄に対してどういう感情を抱いたのかが記憶にない。いまそういうことを考え直していたんだけどなにも思えない。だったらそのときも何も思ってなかった可能性が高い。

 

 帰りに駅前のチケット屋で東京行の新幹線の切符を買った。東京には小学2年生くらいまで住んでいたから、憶えているところをいろいろまわって、あとは観光をして友達と会う、くらいのことをして合格発表の日には帰る。ぶっちゃけべつに用事はないし、特別行きたいわけではないんだけど、だいたいぼくは出かけた先で考えごとが捗るから、新生活が始まるまでにどこでもいいから一回旅行をして、頭の中を整理しておこうと思ったのだ。

 チケット屋からバス停までは結構な距離があったけど、もう雨に打たれることにした。鞄の中に入ったビニール袋からグチャグチャの折り畳み傘をもたもたしながらとり出す自分の姿を思い浮かべたら絶望的な気分になったからだ。雨滴はもうずいぶん大粒になっていて、頭皮に直接ぴしぴし当たるのを感じた。制服が濡れてももう気にしなくていいと思うと、若干開放的な気分になる。

トラベルプラン

 ようやっと受験が終わったっていうのに解放感とかは別になくて、そりゃここ一ヶ月勉強してなかったから当たり前なんだけどなんとなく拍子抜けしている。

 思ったより簡単に終わったしあんなに思いつめなくてよかったなとか、結局またまじめに頑張らないままやり過ごしてしまったなとか、そういうことをぼんやり考えて、気分が沈むわけでもないんだけどなんとなく気力が削げてしまいなにもできず、でももう勉強しなくていいと思うと自責の念とかは浮かんでこなくて、受験がなければ一日むだにしてもいいと思っている自分がいやになったら今度は明確に気分が沈んできて、そうすると余計ハヌマーンが沁みて読書どころではなくなってしまうんだけど、ここまでだらだら書いてぼくは読書をすればとにかく一日がむだではなくなると無邪気に信じている自分の浅はかさと、あとやたら文章が長くなっていることに気付く。こういうやたら長い文章はちょっと前のチャンドラーとかハメットとかワーワー言いながら読んでたぼくからするとダサかったはずで、今でもそんなに文章の好みとかは変わってないはずなんだけど。保坂和志とか堀江敏幸とか読んでたから移ったんだろうか。単純に文章の区切りとかわりとどうでもいいなと気づきはじめたからかもしれない。

 

 ひさびさに夜更かしをして起きたら昼過ぎで、やる気もクソもなくて空っぽの胃袋ににコーヒーを流し込んで後悔して、小学生のときやってたゲームボーイアドバンスのゲームを引っぱり出してしょーもないミニゲームとかやったり色んな音楽をつけたり消したりしていたら夕方になってしまった。日が傾いて部屋はもうだいぶ薄暗いんだけど電気つけるのも面倒くさい。パソコンの液晶が眩しい。こういう時にハヌマーンとか昔から好きなバンドの音楽かけるとほんとうにだめで、一日を無駄にするだめな自分に陶酔してより一層だめになってしまうのでやめて、キーボードのぱちぱち鳴るのと窓の下にだらだら注がれる車のエンジン音だけを聴いている。どっちにしたって湿っぽい気分にしかならないんだけど、まあ多少はまともな考えごとができるようになる気もする。

 

 考えることが多すぎる。たくさんあって混線して全部滞っている。旅行とか引っ越しとか新生活の準備とか、具体的なことが生活のなかで動くのに触発されて自分について考えることも増殖してしまって、なんにもわからなくって混乱している。まあたぶん数日したらたいてい忘れるしなんなら今日寝たら治ってるようなタイプのやつっぽいかあらべつにいいんだけど、なんかあれだ、書いてるうちになに書いたらいいんだかわかんなくなってきた、夕方に投稿しようと思ってたのにぼやっとしてたら夜になってるし。

 

 そういえば今年最初の更新だった、去年はなんか2週間に一回とか1か月に一回とかわりとよく更新してたけどあれはほんとうになんであんなことしてたんだろう、言いたいこともなかったっぽいのに。やっぱり自分のことをもうちょっと考えなきゃいけないっぽい。とりあえず今日は早く寝ようと思う、明日登校日だし。なんか卒業式の予行かなんかで、そんで明後日が卒業式で、めんどくさいなあと思う。クラスメイトがびしょびしょ泣いてるのを数時間見つづけなければいけないのほんとうにめんどうくさい。高校クソ、キャンパスライフ楽しみ。寝ます

整理

「部屋」というタイトルの記事にしようと思ったんだけど、おんなじタイトルで前に書いてたので、やめた。まだ一人称に「私」を使っているころのやつだ。読みかえすと恥ずかしい。思えば、ずいぶん性分に合わないことをやっていた。なにも言いたいことなんかないのになにかを言おうとしたり、自分の暢気さを押し殺してむりやり思いつめようとしたり。何にしても、気負い過ぎていたんだと思う。

 

部屋があんまり汚いもんだから片づけることにした。もうほとんど忘れてしまいかけている数日前の憂鬱に、とどめを刺すための気晴らしみたいな意味も込めた、年末の大掃除だ。まあそんなにたいそうなものはできないんだけど。落ちているものをあるべき場所に戻して、捨てるものは捨てて、掃除機をかけて。本来ならふだんからこまめにやらきゃいけないことをまとめてやるだけのこと。

汚い部屋を汚くない部屋にするのは簡単だ。一瞬で終わる。床に落ちているものをひろって片づけて、片づけがたいものはとりあえず部屋の隅に追いやれば、見たところ汚くはない、という状態にはとりあえず持って行ける。問題はそのあと、汚くない部屋をきれいな部屋にする作業。これがめんどくさい。ようはさっき大雑把にやった片付けの仕上げ作業なわけで、地味だし長い時間がかかる。疲れてくる。しんどい。あんまり爽快感がない。気が滅入る。凝り始めるときりがない。でもまあ放っておいたら部屋が勝手に片付くわけでもなし、仕方なくだらだらやったら半日かかった。手際が悪すぎる。

 

しかし、片づけてあらためて思うことだけど、部屋がダサい。家具の色はバラバラ、位置は適当、カーテンもカーペットも薄汚れている。そもそもコンセプトからして散らかっているのでいくら片づけてもどうしようもない。部屋は人の心を映す鏡って話、あれはやっぱり本当なのかもしれない。物が少ないのに常時散らかりっぱなしのこの部屋は、感情の波が小さいのに情緒不安定なぼくにそっくりだ。

あー。自分語りはやめよう。

 

片付けが終ったら本を整理した。というか、減らした。つまらなかった本を、おもしろいけどよく憶えていない本を、憶えてるけどもう読まなさそうな本やらまた読むだろうけど確実に図書館にある本、買うだけ買って興味の薄れた本まで、片っ端から古本屋に送る段ボール箱に詰め込む。ついでにCDもいくらか。

下宿に引っ越すことも考慮に入れながら、いくらか寂しい思いもしつつ取捨選択をしたせいか、けっきょく、手元に残るのは、漫画と活字の本と写真集とぜんぶ合わせて、五十冊にもならなかった。積読のほうがなんならちょっと多い。

ほんとうに自分に収集癖がなくてよかったと思う。もしあったら、読書趣味から本を収集して、アニメ好きからフィギュアやポスターを集めて、特撮おもちゃをコレクションして、とにかくもうキリがない。ただでさえ整理整頓ができないのに、このうえ部屋のものが増えたりしたら。考えるだけで脳がぞわぞわしてくる。

 

稲垣足穂一千一秒物語」、田村隆一「詩集1999」、レイモンド・チャンドラー「さよなら愛しい人」。今年買った本のなかでは、村上春樹ダンス・ダンス・ダンス」、レイ・ブラッドベリ火星年代記」、とか。手ばなせない本がちょっとずつだけど増えて、年始の本棚の空白はだんだん埋まっていく。いつか新しい本を読むことに疲れてしまったら、そういう本だけを繰り返し繰り返し読むことになるのだと思う。それは悲しいことで、ちっとも輝かしくはないけど、わりかし、楽しくて清潔そうだ。その未来のために本を読むって考えてみるのも、まあ、悪くはない。

最近はあんまり読書に時間が割けていなくて、寝るまえに上にあげたような本をちらっと読むくらい。でも受験が終ったらまた一日二三時間くらい使うことになるんだろう。

読んだ冊数とかどうでもいいと素直に思えるようになったらいいなあと思う。読書なんかぼくにとっちゃただの暇つぶしなわけだし、暇になったら、気が向いたらやろう。そんなもんでいい。

何にしても、気負いすぎないことだ。

冬/街/これからの生活

冬が好きだ。十二月のつめたい空気と明瞭な陽の光のなかでは、自分自身の輪郭も、いいかげんみすぼらしくなってきたコンバースの汚れ、ポケットでくしゃくしゃになったレシートの感触、ベンチに座る女の子の烏色のコートのほつれ、バス通りに流れ込む車のエンジン音も、なにもかもがはっきり、きっぱりしている。ストーブの効いた四号車から駅のホームへ、一歩出て空気のつめたさに驚くとき、ぼくは冬の厳しさと対面している。そいつは一ミリの妥協もなく、世界を冷徹に割りきり、ぼくの眠気を切りきざむ。

冬が好きだ。毎日毎日なにかを妥協してなあなあで生き延びている、ぼくはその美しさに憧れずにはいられない。たまにはコートのポケットから手を出して歩いてみようかと思ったけど、霜焼けになるのが怖くてやめた。マフラーをきつく巻きなおして、帰り道をたどる。

 

からまったイヤフォンのコードをほどきながら、信号が変わるのを待っていた。電柱も街路樹も建物もみんな、澄んだ空に挑んで負けてみじめったらしくそこらに突っ立っている。からっぽの空はなんにもないところに便宜上青い色がついているみたいで、排水溝で腐った落ち葉は茶色くて、犬の散歩をするおばさんの着るウィンドブレイカーはドぎつい蛍光色。雪の降らない地域に住んでいると、冬のイメージってだいたいこういうものになる。

この交差点からなら、給水塔が三本、一気に見渡せる。そのこと気づいたのはほんとうに今月に入ってからのことだ。そのうち一本についてはそもそも存在していることさえ知らなかった。

小学三年生から住んでいるっていうのに、ぼくがこの街についてわかっていることはあまりにも少ない。たとえば、未だに一丁目公園の場所が分からない。だいたいどのあたりか、は何となくわかるんだけど。顔は出てくるのに名前が出てこない、あいつの家から近いのは知ってる。

 

コードをほどき終わってから五秒くらいで信号は青に変わる。横断歩道を渡りながら、三者面談で先生が言った、まあまず浪人はないでしょう、って台詞を思い出していた。どこの大学に行くにしろ、春からは今住んでいる家を離れる。獲らぬ狸の皮算用だと自分でも呆れながら、これから暮らす知らない街や、独りぐらしの大変さに思いを巡らせてみる。あとぼくのいなくなった家と、母親の独り暮らしのことも。

まあどこに行くにしたって、たぶんだいたい同じなんだと思う。すばらしいものもくだらないものも、なんだって生活に組みこんでしまえば大したことはなかった。自分の身体と一緒だと思う。愛着は生まれても感動はしない。美しいとも醜いともいまいち思いづらいし、美しいとか醜いとか、感じたところでそれは一時的な感想でしかない。ただ、ぼくの生活だというだけだ。人間、いちいち身の回りのことに心を動かしたりしない。そんなことしていたら疲れるに決まっているからだ。

どこにどんなふうに住むにしたって、とにかくぼくはそこで生活する。つまらない大学にだってそれなりの楽しみはある。すばらしい大学だとしても一週間で飽きる。暑い街なら冬が楽だし、寒い街なら夏が楽だ。独り暮らしはたいへんかもしれないけどどうせそのうち慣れる。寂しいのはいつものことだ。ぼくのことだからうまくはやれないだろうけど、まあ、それなりにやれるだろう。とにかく、今から心配するほどじゃない。今日はとりあえず今日すべきことをこなしたほうがいい。勉強とか。勉強なあ……。