料理や洗濯や家事のめんどくさいアレコレを母親に一任できたら小説もさぞ進むことだろうと思って長いこと帰省しているけど今日なんかレポートが終わった解放感に任せて買った1000ピースのジグソーパズルを匿名ラジオを聞きながらつくっていただけでまる一日過ぎて夜中になってしまうなど、家事をノイズと認識してキャンセリングしたところぼくの時間を使うのがメチャクチャ下手なところが鮮明に現れでるばかりという結果に陥って毎日おれは今もしかしたら小説を書くべきじゃないのかもしれないおれはまだまだ右も左もわからない若造なのだからみたいなスケールのでかい諦めにつつみこまれて小説を書きもせず読みもせずオモコロライターの私生活について加速度的に詳しくなっていく。

 ジグソーパズルってよく推理小説とかで思考の組み立てのたとえに使われたりするけどこの遊びに有用なスキルがそうやって他の何かに役立ったりするところは全く想像できない。もうひたすら心を無にして同じ色のピースを集めまくったりひとつひとつのピースの柄が全体像のどこと対応しているのか確認するだけの作業だから論理的思考力は一切必要ないし、「パズルのピースが嵌ったような」って梱包材のプチプチをつぶすくらい身体的な気持ちよさじゃないか。比喩する先のイメージに引っ張られてなんだか頭のいいひとのやるカッコいい遊びみたいになってるけどこれほんとは手が動いてるとなんとなく空白の時間を埋められて安心できる類のバカ向けの遊びだと思う。つくってるのはドラクロワの民衆を導くなんちゃらだけど前作ったバベルの塔に比べるとのっぺり塗ってあるだけの箇所が多いから手で試行錯誤するしかなくて結構めんどくさい。

 この文章もただ手が動いてるだけで書けているからジグソーパズルと頭の使いかたはあんまり変わらない。小説を書くときはもっとちゃんと頭が使えているのでふつうになんかの都合で頭が回らなくなってきているのかもしれない。糖分が足りないのか。明日の朝のぶんのドーナツをたべて寝る。

10/20

「たとえば、」という書き出しで小説を書きたいなあと2年前くらいからおもっており、実際に2,3回書いてもみたんだけどしっくりこず、最近は書くのがもうこわくてこわくて仕方なくなってしまってめっきり文章を書かなくなってしまった。最初の1行は無責任にかけても10行も進んでしまうと10行ぶんもの自分の言葉やそのとき考えていたことやその背後にある本とかに責任をもたなければいけないという気になってしまってそうなるともう全然うかつに書きすすめられなくなる。そのてんブログはよくて各記事は単なる断片で過去の自分の責任をぼくが負う必要もとくにないし背後にあるのはまあ今日した洗濯ものとか雨でずくずくになったスニーカーとか借りてきただけで見てないDVDとかそんなもんで、まあそれはそれで責任重大なんだかしらんけど、小説にくらべるとやっぱり洗濯ものがぼくに語りかけ託してくるものはあきらかに貧しく思われて気分的に楽だとか、まあそういうことを考えていたら今日も日付を越えてそろそろ日が昇ってしまうんじゃないかとびくびくしはじめている。勉強もしてなきゃ本もよめてない。おれはなにをしているんだろうか。

 

 書きはじめてから気づいたけど言いたいことなんか特になくて、だから自戒とか自己嫌悪みたいな書きなれた、癖でてきとうに並べられてしまうようなものごとが出てきてしまうので、いろいろ最近みたアニメ映画の話なんか書こうと思ってたのにかけてないのはツイッターでだいたい書いたし、とか言い訳をべつにするとさいきんそういうことを文章に起こしていないから癖で出てきてくれないっていうことなのだと思う。すきなものはちょっとずつ増えていくけど、どれについてもなにも言えないのではないのかなと思う。単に一時的なものなのか。いつか、いくつかのなにかについて、なんがしかを言える自分がきてくれるんだろうか。いや来てくれるとか来てくれないとかではないよな。

若者のすべて

8/6

 さいきんはまたハヌマーンとかナンバガとか聞いている。夏だからなんだろうか。たしかに炎天下を歩いて熱気にキレていると山田亮一のどうしようもなく駄目な感じの歌詞も向井秀徳テレキャスターのギラギラした音もすごくフィットする感じはあるが。それだけなのか。またあのころのように、致命的にとすらいえないほど、漠然とぐだぐだと、なにかがだめになりかけているんじゃないだろうか。漠然とそんな感じがしていた。

 祖父の法事があさってにあるんだけど家族は祖母と母しか集まらないらしくて、それじゃちょっとさすがに少ないだろうと思ってなんぼかの無理を押してあした帰省することにしたら母親から感謝のLINEスタンプが贈られてくる。家に帰るだけで、ありがとうって、変な話だと多少さみしくなったりもし。まあそれはいい。

 そういえば最近は佐々木中をよんでいるんだけど抜群に話がうまくて熱中できるし元気が出る。『夜戦と永遠』もウンウンいいながら学校の図書館でなんとかちょっとずつ読み進めている。そういえば高校生のとき読みもしねーのになんとなく買った『ツァラトゥストラ』もこの人の訳だったので引っ張り出して帰省に持っていくことにした。

 というわけで本は比較的読めている。じゃあ一体、なにが。

 

8/7

 ゆっくり起きて二度寝して、くらい室内で昼間だらだらして、あわてて出かけて、サンダーバードに乗って帰省した。トイレから戻るさい右ひだりの席をながめていたが誰しもスマートフォンの画面をなでていてそうでなければPCでネットフリックスだかなんだかしらんけど映画を見ているというかんじだった。ただぼくの隣の席の70くらいの女性の手にはなにもなく、ときどき左隣の息子らしき男と会話を交わすか、窓をみて、ぼくが降りるまでの2,3時間を過ごしていた。ぼくは磯崎憲一郎の『世紀の発見』を、そういえばこれも佐々木中の文章に出てきたからなんだけど、読んでいて、山の陰にかくれたずいぶん遅い夕日のいろをときどき見ていた。いまから久々に会いに行く、母や祖母に、報告したおもしろいこと、過剰な脚色や真っ赤な嘘まで、いろんなことを思いだした。

 近鉄急行に乗り換える。磯崎は読み終えてしまう。あと20分で実家の最寄り駅につく。MP3プレイヤーでは「ハ」ヌマーンがおわり、「バ」ズマザーズもおわり、漢字にうつって空気公団がながれている。日もすっかり落ちて、窓のそとに見るべきものもないと思って視線は車内の気になる数人のあいだをじゅんぐりにまわっていたが、そのうちのひとり、向いの席に座っていたスーツ姿の大きな顔が背後、つまりぼくの視線の奥側の窓を向き、そういえば車内の誰もが同じ方向を向いて、声を上げているのがイヤホンをこえて聞こえてきて、その視線の先には花火が上がっていた。いくつもの花火が重なり合って、あっちが消えればこっちが上がって、ぼくもイヤフォンをはずし、声を漏らした。

 数秒で花火は右へと流れて行ってしまう。スーツ姿も、制服姿も、着飾ったのもそうでないのも、また手元や互いの目、いちばんちかい窓へと視線を戻しつつもなんとなくそわそわした感じがのこっているのを共有していた。ぼくはこのなかのだれかと目が合えばいいと思ったが、だれしも自分のことでいっぱいだった。べつにがっかりもせず、目を閉じればなかば忘れていた、ひさしぶりに聴く曲が流れている。すべてはこの予兆なのだとするならばここ数日のやな感じが正当になって、それはいつかぼくが、ただの逃げだと思っていたことで、でも、おかげで犯人捜しの手間は省け、なにも憎まずにすみ、それならそれでいいと思った。

 目を閉じたままですこし笑ったけど、よそからみれば多少、不気味だったかもしれない。

6/9

 カレーを作るたびに、しこたま入れた玉ねぎのすがたがまだ残っている、もっと時間をかけて昼間から煮た方が、と思うんだけど、美味しいと言ってくれるので、実際にうまいので、まあいいか、と思ってなあなあにしてあったりする。さいきん象徴的だなと思ったのはなんかこういうことだ。だからたぶん最近はそういう感じの日々なんだろう。

 ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」をよんだ。一人の人間が日がな考えていることがすべて書いてある感じだったからまったく全貌がつかめないんだけど、なんだかとても勇気づけられた気がした。人生になにか、意味や、ルールや、そういったものを見出すことの、不毛さも危険さもわきまえたうえで、それでもそうやって、それそのもの、から逃れながら生きていってもいいんだと思った。全然違うかもしれないが、まあ、また読みかえせばよかった。

 あんまり関係ないのかもしれないけど「筺底のエルピス」を既刊すべて読んだ。歴史や伝承のとてつもなく広い範囲にみえるおぼろげな法則性が、それは実際に必然なんだか偶然なんだか、詳しくないから知らないが、とにかく同一の設定のもとにまとめ上げられていく手法には毎巻驚かされつづけた。こういうのをこそ「世界観」設定とよぶんだろう。

 そういえば「きことわ」をじっくり読み返す機会ができたので、そうしているんだけど、夢がこれだけ現在らしさ、というのか、見たさきから過ぎてゆくかんじ、をもって書かれているのはもしかしたらすごいことなんじゃないかと思う。つねに「こういう夢を見た」という状態でしか認識できないはずのものが、雨が降ったり、電車に乗ったり、という現在の過ぎかたと同じように過ぎていく。これは小説でしかできないことなのかもしれない。

 なにか、とか、なのか、とか、やたら多い。さいきん、ここ半年くらいで、コミュニケーションに支障が出るくらい断言を避けるようになっていると思う。進路も、小説のことも、ぼんやりしたものをぼんやりしたまま保持している。さいきんはそれがいいと思っている。

 アニメについてちょっと書いた記事が下書きのままほったらかしになっていて、これもなんとかしなきゃなと思う。旅行の洗濯物が残っている。研究室から借りてきた本を返しそこねた。ペットボトル、飲んだまま放置。なんでテーブルにラップが出っぱなしになっているのか。あと10分で出なきゃいけないのに、飲みきれない量のコーヒーを淹れてしまった。どれもこれもなんとかしなきゃな。思うだけ思っていて、日に日に悪化していく。早起きして、やる気が出る日を漫然と待っている。

 しばらく文章をまともに書いていないから感覚がにぶっていて、工夫をしようにもどこにならそれが差し込めるのか見当がつかない。小説を読んでいても高校生のときみたいに文章のこまかいところをつっつきまわす楽しみがなく、だらだらストーリーを追いかけている。いまだに自己紹介では「小説が好きで…」と言う。臆面もなく。とくに恥ずかしさもおぼえない。どうやら面の皮が厚くなったらしい。読んでない本が話題に挙がったときとか、便利だ。

 生活リズムが崩れるから日増しに考えることが陰鬱になっていくんだと思う。明日は早起きをしよう。バイトに行く。

二十歳になります

 こんな時間に小腹が空いて、コンビニの袋を下げて歩きなれた暗い道をぶらぶら歩いていたら、またトラックが追い越し、圧倒的にひとりで、冬の感じがつよくして、そういえば来週にはもう二十歳になるんだった。

 誕生日を祝ってもらえた経験と結びついているのかして、11月の気候をぼくは好きになっている。だいたい暑いのより寒いののほうが好きで、薄着するより厚着するほうが好きで、暑いと着た先で脱げばいいけど、寒いと着てきた服が足りなかったらあとはもう耐える以外どうしようもないのとかもけっこう悪くない。冬の朝は考えがはっきりして、足のさきが冷たいのをがまんしながら、いまならなあなあにしていることぜんぶに決着をつけてしまえるような思いがする。そんなことはありえない。でも、そういう気分でいる時間が、すくなくともぼくには必要だ。

 来週にはもう二十歳になる。いろんなことを考えて、言えるようになったけど、それと同時にいろんなことを考えそこねて、言えることを言わないことも増えた。よくなったとは思わなくても、高校生のときみたいにしていようとは二度と思わない。ハヌマーンも、もうそんなには聴かない。時間をむだにしたって、べつに死にたくなんかならない。誰のことも嫌いたくないし、歩くときは極力にこにこしていたい。いくらかの友達と、好きな女の子がいて、完璧にではないけど、去年の4月から、なんとか一人で暮らしてきた。部屋には読んでない本と借りっぱなしの漫画、捨て損ねたプラスチックごみ。小説家にあこがれっぱなしで、でも何が書けるわけでもなくて、ブログはくりかえす自戒まみれだ。でも、先月末は旅行に行って、ちょっといいコートを買った。写真も撮れて、自分で納得いく味のごはんが作れる。

 なにとはなしに、それでいいと思う。ぼくは二十歳になれると思う。ぼくは十代を後悔しないと思う。

出先の暇の話

 いま読んでる吉田健一の「乞食王子」で、都会はどんなに音響的に騒がしくてもひっそりかんとしている(ひっそりかんとしているというのがすごくいいと思う)けど田舎は自然のせいでとにかくうるさいみたいな話があって、今ちょうど父親に連れられて長野の山奥に来てたしかにそうかもしらんなというようなことを思う。虫も風も騒がしいったらない。ついでに言うと父親も騒がしい。どうにかしてほしい。

 今年の夏休みは小刻みにあちこちへ行ってるからとにかくちっとも金沢にとどまれていない。お盆前後に帰省して九月頭は友だちと温泉旅行に行って今の長野行きから帰ったら恋人とまた出かけるしそれが終わったら今度はサークルの合宿とそこからそのまま帰省で帰ってきたらちょうど休みが終わってる感じになる。あわただしいことこの上ないが移動やら何やらで結果的に暇な時間は増えてるので読書やら書き物やらが進んでいたりしてそれはそれで嬉しいことだけどとにかく始終あちこちに動いて今日はどこで寝るのかとか飯はどこで食うんだろうとかシャンプーが変わって頭がガシガシするんじゃないかとかあれこれ細かい心配があるもんであんまり心休まる感じはしない。

 そういえば二コ前の記事はちょうど旅先でゆっくりできた話だった。でもあっちはなんにも目的なく行ったからよかったけど、この休みの旅行はどこに行ったって割合なんかしらやることがあったりする。と思うとふっと一日まるまるノープランの日がぷかっと浮かんできてしまったりもし、そうするとああ明日は何をしたもんかなとせわしなく考えてしまうぼくはどうも暇な時間はあんまり得意じゃないらしい。

 そういえば高校の頃は受験勉強というとにかくやらなきゃいけないことがあって暇な時間が暇な時間でないのでずうっと神経をすり減らす思いをしていたり読書がやたらにはかどったりしていて、それで今はじゃあ勉強をしないでいいのかというとそういうわけでもないんだけど、さきに控えてるのが就活やら卒論やら、何にどう備えればいいのかいまのところぜんぜん見当が付かなくて考えると途方に暮れてしまうから考えないようにしているものごとしかないもんだから暇な時間がそのまま暇な時間としてどかんと座っている。

 中高生のときは部活に勉強にあれこれ忙しい連中から自分を切り離す手段として暇なのをやたらと強調してありがたがっていたように思うけど、今はもうそんなことしたいとも思わないんだし、暇な時間はできるだけ避けるというか、そこまでしなくてもいいけど、暇になったらああ暇だなあ困ったなあって素直に思えるようにしておいた方がいいのかもしれない。どうもただぼんやりしているのはあんまり得意じゃないみたいだし。