村上龍「 海の向こうで戦争が始まる」を読んだ

同著者作はついこないだデビュー作から入ったので、折角だから発表順に追っかけてみようというこころみのもと、とりあえず、二作目であるこの作品を読んでみた。前作とくらべると、さすがにはじめて村上龍にさわった衝撃がないぶん読了後の感慨は比較的ちいさいが、読んでいる最中に要した体力、驚かされた文章表現のかずはこっちのほうが頭一つ上まわる。とにかく村上龍という作家の、巧さを思いしらされる作品だった。

 

前作、「 限りなく透明に近いブルー」もいいかげん物語性がうすくて純文学然とした作風だったけど、この「 海の向こうで戦争が始まる」にはいよいよ具体性がない。どこでもない国の海辺で出会った、フィニーという女と名前のない「 僕」との幻想、海の向こうの街のビジョン。それだけで物語は強引に進行されていく。そこに起承転結もカタルシスもオチも、いちおうの筋書というようなものさえもない。物語の全体性というベールをはがしたその奥の、剥きだしの肉体性、村上龍文学の熾烈さと、読者はこの小説で対峙させられる。

 

けれどその一方でここに描かれているものごとはどうしようもなく具体的だ。街の風景、ごみのにおい、殴られた時の痛み、血のぬるぬるした感触、そういった感覚の描写ももちろんのこととして、海の向こうの街のひとたちの人物像も、外見、家族構成からその性格と趣味嗜好にむかしの思い出、そして彼らのもつ残虐性や破壊への欲望まで。登場するページ数に似つかわしくないほど濃密に細かく描写して、タイトル通りの戦争のはじまるまで、とにかく街のすべてを語りつくす。

ぼくはこの、語りつくす、というところにこの作家の特質を見た気がする。小説という限られた枠のなかに、自分の世界観や人間観のようなはてしない大きさものを入れるとき、村上龍はそのなかの全体を想起させる一部分を切り取って枠におさめる、というような手法を使わない。とにかくすべてを圧縮して圧縮して、描かれるべきそのままの姿を小説につめこむ。それはいろんなひとがやりたがることだけど、解釈の余地を与えないほどの情報量、肉体感覚を凌駕するほどの熱量をもつ、あの文章が書ける村上龍にしか、たぶんできないことなんだろう。

 

この小説で起る、カップルがみる海の向こうの街の「 戦争」は、実のところ戦争ですらなくて、一方的な虐殺だ。戦争を実行する兵士にも爆弾にも、敵対者はいない。ただ理由なく街と人を破壊していくだけだ。それはきっと純粋な残虐性や破壊への欲望といった、ここまででひとりひとりの街の人物たちのなかに描かれてきた破滅的な衝動、その発露に過ぎない。

破壊の描写はこれまでと様変わりしたように淡々として無表情だけど、だからこそ読む側を疲弊させる息ぐるしさをはらんでいる。そこまでの、前述したよーな濃密な描写で深く知り、明確なイメージをもってある程度の親しみすら感じていたひとが、街が、当然のように破壊されていくのが耐えがたい。その苦痛が思考の速度を上回ったときの放心状態は恍惚に似て、読んでいる最中のそんな感情の変化と同期するように物語は、「 僕」とフィニーのたわいなくて美しいやりとりのなかに収束する。

半分くらい読んでから気づいたことだけど、この小説で描かれる海の向こうの街のビジョンは読んでいる最中のこちら側の精神の変化とまるで同じように動いてとじていく。ぼくが濃密な描写に疲弊する、それと同じように街の退廃的な描写が続いて、それがある程度まで達したところで文章の情報量が思考を上まわってぼくの意識は熱に浮かされたようになる、するとただ殺すだけの戦争は始まってすべてが破壊されて終る。

しかも、読んでいる最中ぼくのこころは目まぐるしく動いていくけれど体はただ椅子に座ってページをめくるだけ、というその様子さえ、「 僕」とフィニーがコカインを打ってただぼんやりと海の向こうを眺めるのと同じように作品のなかに映っている。

それをまるで鏡みたいだな、と思っていると、最終ページ、

すでに太陽は海面で跳躍するのを止めている。

この最後の一文を読んでぎょっとする。日が沈んで、海が太陽の光を反射するのをやめる、それと同じくして小説は終って、 「 海の向こうで戦争が始まる」はぼくのこころを映すのをやめる。徹頭徹尾、この小説は読者の心を映しつづけるのだとぼくは気づく。

 

物語を追っかけていると突然自分の存在にとても似たものをみつけて、なにかたいへんな真理に肉薄したような熱狂に陥る。この作品は、小説というのはそういうものだと、村上龍本人がデビュー作「 限りなく透明に近いブルー」を書いて気づいたことに根ざした、そんなある種の実験だったんじゃないか。

あとがきにある「 小説は麻薬そっくりだ」の文言は、「 俺が生きてる時は注射針が腕に刺さっているときだけだ。残りは全く死んでいる。残りは注射器の中に入れる白い粉を得るために使うんだ」という昔の友達の発言からきたものだけど、ただそれだけの意味じゃないような気もする。小説を書いている最中の興奮は麻薬に近いんだ、とか。うーん、どっちもやったことないから、どっちがすごいのか釈然としない。