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「 コンクリート・レボルティオ」をみました(とりあえず二話まで)

二クール目、THE LAST SONGはのちのち別記事をもつことにして、とりあえず一クールみたとこの感想を、一話ずつ分けながら書きつけておこうと思う。できるだけぼやかしていきたいけど無意識のうちにこぼしちゃうネタバレもあると思うので、未視聴のかたは避けたほうがいいかも。

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第一話 東京の魔女

まず最初に目を引いたのはビジュアルだった。影がすくなくビビットな色付けはさまざまな超人が闊歩する世界の異様さを、やけに凝った小物やファッションは昭和の空気感を、それぞれ説得力あるかたちで導入部から的確に示してくれた。サイズもデザインの方向性も全然違うヒーローたちが戦うバトルシーンにも目をひかれたし、あと、その。おっぱいのこだわりも、良かった。時系列や設定など不明瞭な状態から適宜設定を公開していくSF小説形式で情報を扱うので、最初の数話はちょいと分かりづらいところがあったが、この一話から一貫したビジュアルのおもしろさがそれをうまくカバーしてくれていたと思う。

一話の物語は導入部としてとてもよくできている。なんだかわからんが明らかになんかのパロディだな! というものの奔流に目をぐるぐるさせながら観ていくと、ドタバタと始まるストーリーは主要キャラの能力や世界観設定の説明をきっちり挟みつつ切ないラストへ導かれ、今後の展開への期待高まる謎に満ちた未来パートに収束。

正義の超人を冷徹にとり締まらなくてはならない制度、そのもとにある超人化という組織のいびつさを提示しつつ、そこに属しつつも正義の超人に対するあこがれを捨てきれない人吉爾朗という主人公のありかたが第一話のオチからすでにはっきりと表れている。

またその後の展開の布石らしきところものっけからちらほらと見受けられる。輝子の「二十歳になりました」はきっと、大人と子供との断絶を描くこの物語においては、のちのち重みを増してくる重要なセリフだ。

 

第二話 「黒い霧」のなかで

「 昔はよかった」ってよく言うけど、案外そうでもないんじゃないかと。そんな問いかけを、いつまでも子供のままでつねに時間流にとり残されつづける存在、オバケの風郎太の視点から、過去と未来を行き来しつつ描く話。いやー、いきなりエグいことをさらっとやりやがる。こんなこと言うのもナンだがコンレボのシナリオは相当拗らせてるよ。ちょっとどうかと思うよ。

今回はここまで観てきた十三話のなかじゃダントツで過去・未来の扱いかたがうまい。神化四十二年と四十六年のあいだにある出来事、人吉爾朗を超人課から抜けさせた断絶は、このエピソードでは善悪二元論の消失というかたちで現れている。正義だと思っていた行為が、じつはある側面では悪でもあったことが判明する、という流れだ。ここに、正義と悪にきっぱりと世界を二分するモノのみかたが子供だましの幻想でしかない、というこの世界の残酷な現実性があらわになり、神化四十六年のシーンで風郎太はそれを嘆く。

重要なのはその世界の残酷さを分かりきっている人吉爾朗が、過去編でも未来編でも、風郎太の子供っぽさを否定せず、むしろそのままでいろと全面的に肯定するところにあると思う。超人がいつでも正義とは限らないし、超人課は決してヒーロー集団じゃない。そこを割りきってしまったほうがやりやすいと分かっていても、それでも爾朗は、さっき言ったような子供じみた幻想を信じる純粋さを捨てたくないし、そのために、それをいつまでも持ちうる風郎太を必要とした。

ここに、どうしても失われてしまう子供の無垢なこころのような過去のうつくしさを、惜しまざるをえない大人の哀愁、という、コンクリート・レボルティオのひとつの芯がはっきりと見える。それはむかしの作品のパロディを多用するこの作品の制作者にもそのまま適用できることだし、「 これは古い人間のノスタルジイだ」という脚本家の強烈な自覚がうかがえ、この作品で多用されるパロディの必然性を知ることができる。どうやらこの作品はただの超人パラダイスじゃない、懐古趣味がつくったキメラじゃないぞと、ぼくはこの二話で実感した。

これはキャラクターどころか制作側まで総出で、子どもだった自分、昭和のころの思い出といった過去と格闘する物語だ。それを見届けるからにはこっちだってそれ相応の覚悟が必要だろう。コンレボのストイックさ、容赦のなさが存分に表れたエピソード。

 

三話 鉄骨のひと