Don't Summer

一昨日。三時間睡眠のいちばんハッキリしない頭で自転車を漕ぎ、終業式の小一時間を爆睡、帰りに友人の家でスマブラして。帰り道を自転車でたどりながら、そういえばそろそろ八月だな、っていうか今日から夏休みだな、って、五時を過ぎてもまだ日の沈んでないのをみて思いだした。

信じられなかった、自分が「 信じられない」なんて心持もなく自然にそれを受けいれられていること。夏休みが来たね、そうだね。それだけで、なんの感慨も、嫌悪もかかえていない自分がふしぎだった。

むぎーわらー、ぼーしぃはー、ってペダル漕ぎながらうたう吉田拓郎の名曲もまるで効力はなくて、けっきょく無感動のまま家に着いてしまった。ぼくが夏に向ける感情は、こんなに淡白だったろうか。違う、はずなんだけど。関係ないけどあの曲が子どもじゃなくて夏休みを失ってしまった大人のためのうたなんだって気づいたのはわりと最近だ。

 

夏はにがて。とくにあと一週間で来る八月。その理由はことばにしづらいけど、まー確実に考えられるのは、暑い、さわがしい、ってとこだろう。街中にエネルギーが満ちていて、それがぼくの脳みそを情報で飽和状態にする。ぼんやりした頭は現実を直視しない、未来に夢をみない、ただ過去の八月においてきた後悔のかずかずを漠然と引っぱりだすだけ。そのせいで内省的にもなれない。終始感情がざわざわして、ただ家にいるだけでも疲れてくる。しかたなく外に出れば、慣れない滑稽なダンスをひたすら踊らされているみたいな気恥ずかしさと徒労感がずっと続く。

でもだからって嫌いになるにはやっぱりあまりに魅力的すぎる。にがてだなんて思いたくない、そういうふうに思わせてしまううつくしさというのが夏にはどうしてもある。突きぬけるように爽快で、わくわくして、しらない駅の改札を抜けたみたいな気分がずーっと続く。こんな幸福を自分が享受しちゃっていいのかな、って浮足立ってしまうくらい( そこもまた苦手なんだけど)。

 

とにかくぼくが夏に、八月に向ける感情はただものじゃなく複雑だった。はじまればわくわくとうんざりとがないまぜになって襲ってきて、終わればせいせいした気もちの内側にそれを惜しむこころが潜んでいた。八月より好きな月はある、八月より嫌いな月もあるけど、好きと嫌いとそのどっちにも属さない感情までひっくるめた総量をくらべれば、ぼくにとって八月以上に思い入れのある月なんてない。どうがんばっても飼い慣らせない八月は、たしかに怪物だった。

それがいま、どうしてか一切の存在感もなく、あと一週間のところまで近づいてきている。ぼくの変化なのか、ぼくをとりまく環境の変化なのか、わからないけれど、もしそれが大学受験なんてくだらないものがもたらす不安のせいなら、ぼくはまた自分のことをきらいになってしまうなあ。