混線と五か月

首を振る扇風機と蛍光灯の青白い光、窓から吹き込む夕方の風と赤い斜陽、人造対自然、ぼくの部屋で繰り広げられる二対二のデスマッチは、扇風機のコンセントを引っこ抜いたぼくの介入によりあっけなく終焉をむかえた。

扇風機の風にあたっているとなんとなく疲れるのは、たぶんその風量が常に一定で風向きが規則的だからだろう。生活に規則的でわかりやすいものが増えると楽だけど、そんなものばかりに囲まれていると人間は瞬時にへろへろになる。人生は単純明快なものを好むけれど、それはそれとして、人間は本質的に複雑怪奇なものを欲する生きものだ。

だから扇風機ももっと不規則で、自然な風を生み出せるものが必要だ。つくり方はかんたん。まずは内蔵コンピューターで地球の風の動きをシミュレートする。

 

全然関係ない話に飛ぶけども。センター試験まであと五ヶ月ないらしい。

しかし、そんなこと言われても。まるで焦らないわけじゃないけど、よくよく考えてみると、へえ、としか思いようがないことだ。たしかに今年の三月末から今日までの時間はずいぶん短いように感じられるけど、五か月前の自分の記事を読んでみるといまとは文章の感じも書いている内容もずいぶん違う。きっと考えかたもいくらか違うんだろう。

それとおなじように、おちおちしてたらすぐセンター試験になってしまうかもしれないけど、でもそのあいだにぼくだって勉強に対してもっと積極的な人間に変われているかもしれないんだ。そんなふうにいろいろ問題を総当たりしていると、まあ楽観もできないけど、だからって悲観するのも違うな、と思う。

生きてると時間の流れかたなんてその時々でどんどん移り変わる、授業中は長いし遊んでるときは短い、毎年永遠の苦しみみたく感じられる五月と華々しく矢のように過ぎていく二月がほぼおなじ日数だし、七月末には永遠のようであってもどうせすぐ過ぎてしまうだろうと思われた四十日間がいま、たいして早くも遅くもなく、ぬるっと終ろうとしている。そんなふうに、時間の過ぎてくスピードなんてそのときになってみなきゃわからないもんじゃないのか。

だから五か月間が長いか短いかなんて考えるのは野暮。あと五か月しかないって焦れば冷静さを失うし、まだ五か月もあるって日和ればだいじなタイミングを逃す。それこそさっきの不規則性の話で、もともとごちゃごちゃした速度の集積である時間を一律に流れるベルトコンベアーみたいなものとして無理やりとらえてしまうからだめになる。プールを泳ぐのとおなじ心持で海を泳げばそりゃ疲れも出るし思ったより速度も出ない、思わぬアクシデントに遭遇して取り返しがつかなくなるかもしれない。あと五か月だね、そうだねって、無感動にとらえて、なんの期待も不安も抱かずに、臨機応変に対応できるようにしておけばいいのだ。

焦る必要はない、勉強は全然進んでないけど、それは過ぎたこととして、今からでもちびちび進めればいい。無理やり勉強してからだを壊してしまったら受験どころじゃないし、こころを壊してしまったら元も子もない、修復につかう時間は大学浪人でつかうそれの比じゃない。受かるにしろ落ちるにしろあと五か月で終るんだから、気楽にとらえて、やりたくなったら進めればいい。

とか言ってたらまたいっさい勉強しないうちに今日が終ってしまいそうだ。やっべー。どうしよ。いや、でも、言ってあと五か月? あるし。大丈夫大丈夫。受かる受かる。