クリープ

 部屋にはベランダがないので洗濯物を干すとなると窓のそばにかかっている2メートルくらいの物干し竿に昼間洗濯物を干して、寒かったり暑かったりしない限り窓を開けておき、ぼく自身は風が直接当たらないベッドのほうで音楽をかけて本を読んだりしている。寝転がって本を読んでそのまま眠り、1時間半くらいして目が覚めると音楽は鳴りやんでいて、少しいやな温まりかたをした体を冷やすためテーブルのほうへ風にあたりにいくと、開けっ放しにしてあったクリープの袋が窓からの風で倒れて、テーブルの上にたぶん6gくらいの白い粉が散乱しているのを見つける。とりあえず今のところは輪ゴムで留めるとして、今ある分を使い切ったら瓶に入ったやつに買い替えるか、容れ物を買ってきてそこに詰めるかしないとなあと思いながら散乱した粉をあつめて捨てる。そういえばこういう挙動は一年くらい前のぼくだったらなんとなくダサくて耐えられなかっただろうなと考える。べつにそのころから今までの自分の変化に感慨深くなるとかそういうことではないと思うんだけど、そういう行動を今のぼくがそうして平然と取っていることは少し変な感じがした。

 履修する講義とか所属するサークルとか固まってきて生活が落ち着いてきてちょっと安心するのだけど、そうすると思ってたほど暇じゃないことが判明してそっちはそっちで混乱がはじまる。具体的には本を読んだりする余裕がない。まあ読むっちゃ読むのだがいまいち面白くない。たぶん小説を読むときにだけ必要な注意力みたいなものが意識に集まってこない。読めないなら読もうとしなければいいんだけど、なんとなく「読まなきゃ」みたいな意識も働いてたりしてうっとうしい。もっと単純に読みたいと思いたい。あーやべえ明日学校行きたくない。

 大学生になったのだなあと、実感できるようになると時々、高校のころの記憶がいわゆる「思い出」としてよみがえってくることがある。まあわかりやすい青春の断片みたいなやつはもちろん一個もないんだけど、一人で部屋にいたときのことや中学のころからの友達と一緒にいたときのことはまあまあのそれらしさで引っ張り出されてくる。そういうのはまあそりゃ気持ちよくはあるんだけど同時に気味悪くもある。根本的にガラじゃないし。「思い出」は思い出している自分の意識であって過去の自分の記憶でも時間でもない。過去の自分に流れた時間というのは今のぼくがただの感傷で干渉するのはおこがましい。うまくまとまっていない考えなので書きづらいけど(だからこそ書いておかないとすぐ忘れてしまうんだけど)、大事なのは「過去にあったこういうこと」とか「その時の自分にとってはなぜか自然だったこういうこと」ということのはずだ。なのに、それを思い出にしたとたん「こういうことを経てある今の自分」がそれらに優先してきてしまうというか。そこが違和感なんじゃないかと思うんだけど。