アニメ『 ギルティクラウン』を見ました

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ギルティクラウンは中学のとき途中まで観て投げたんだけどそのときの記憶を完全に失っていて、観直したいなーと思っていたらニコニコで一挙放送がやっていたんでこれ幸いと飛びついたら飛びついた先でそのまま離れられなくなりました。そのわりにはこの記事の投稿が遅いが。まあそれはともかく。

 

まず書いておくべきなのは、ギルティクラウンのストーリーはあんまりうまくないということだろーか。展開は唐突で力押し、一クール目に連続する一話完結の回は毎回ワチャワチャしている間にいつの間にか終わっているし、重要回にかぎって説明不足このうえない。結局最後まで設定は不明瞭だったし最終回なんか何が起こったのかちょっとよく分かっていない。よくよく思い返してみれば、設定の矛盾や拾いきれていない伏線、使いあぐねて放置されたらしいキャラなどもちらほら……。これを「 よくできている」とは、正直なところ言えないように思う。

でもギルティクラウンはじゅうぶん面白かったし、観ている最中の体感の楽しさで言えばいままで見てきたアニメの中でも一位二位を争うものだった。なんでかなーと自分でも不思議におもいながら、一応特長をみっつ並べてぐにゃぐにゃ言って、以下、感想としてみる。

 

展開速度

速い。とにかく速い。どれくらいか、第一話を例にとってみると、

桜満集・ 楪いのりの出会い→ 連れ去られるいのり→ 集は残されたシリンダーを手にテロ組織「 葬儀社」のもとへ→ 戦闘に巻き込まれ、いのりを助けるため飛び出す→ 謎の能力に覚醒……

ここまでを一話でやり切りしかも舞台設定の説明までガッツリ挟んでくるくらい。このスピードがしかも、全二十二話を通して一切死なないどころかむしろ加速していくのだから恐ろしいったらない。そりゃ破綻も出るよなと。粗に納得性が出てくるくらいのスピード。

くわえて展開はカタルシスの連続する起伏に富んだものだから、物語はまるでジェットコースターのような体感を生むし、前述したようなストーリーの粗も勢いに圧倒されて視聴中はまるで隠れてしまうし視聴後も八割がた忘れている。*1

一話目の超スピードからなお加速し、描写の粗は吹き飛ばして視聴者を引き付ける、ギルティクラウンのこの疾走感は類まれなるものだ。これが意図的なものか否かは分からないが、物語の面白さ、というか楽しさ、に多大に影響していることには議論の余地がない。

 

桜満集という主人公

ギルティクラウンは、 すぱっと一文で表すなら、「 桜満集が罪を背負う物語」になると思う。

少年少女が幾度となく間違えて、その罪をどう背負っていくか……というのならほかにも例があるように思うけれど、ギルティクラウンの独特さは、さまざまなキャラクターが間違うなかで、けれどもそのまちがいの罪を背負っていくドラマが、主人公の桜満集ただ一人に絞られているところ、そしてそれだけ重点的に描いた主人公を、断固として救わないところにある。

 

なぜ集以外のキャラクターの葛藤が描かれないのか。*2それは彼らが持つ、若者らしくないくらいに強い目的意識のためだろう。桜満集が飛びこんでいく「 葬儀社」というレジスタンス集団は、GHQの打倒という確固たる目的のために動いていて、それとは別に、メンバーそれぞれが強い信念や感情に根ざす個人的な動機をも持っている。それは自分が犯す罪をそのままに背負う強さ、でなくても跳ね除ける口実となる。そのうえ葬儀社に限らずギルティクラウンのキャラクターは往々にして非常に異常事態に対する適応力がむやみに高いから、これが彼らの葛藤のドラマが発生しない理由になる。

けれど、桜満集はそのどちらも持たないままに葬儀社へ飛びこんでいく。そこに所属したのは偶然から手にしてしまった特殊能力のせいだし、組織の行動理念だって理解する以前にそもそもよく分かっていない。しかも、物語開始時点では優柔不断で気弱なただの高校生で、個人的にも「 自分にもなにかできることがしたい」という曖昧な目的しか持っていなかった。だからどうしても罪を背負えなくて、楪いのりへの精神的依存で誤魔化してみたりする間にもどんどん運命に絡め取られて、背負うべき罪は増えていって、またうじうじして……。そんな序盤の展開は、「 桜満集はふつうのやつなんだ」と何度も何度も言い聞かせられているようだった。

桜満集は、この類のバトルモノの主人公ならふつうここから何らかの目的を獲得していくだろうところで、悲愴なことに、それをしないままにただただ罪を背負う覚悟だけを固めていく。友達を利用する自分の在りようを疑えば、その罪を背負う決心をして、誰かに裏切られて絶望すれば、その裏切りすらも受け入れる覚悟で立ち上がる。残酷な現実に立ち向かわずそれを否定もせず、ただそこに適応しようとあがいてあがいて、「 ふつうのやつ」の跡形も残らないくらいどんどん人間性を失くしていくその姿の悲しさがぼくを惹きつけた。しかも集が適応しようとする現実は、彼を不幸にしようと動くのだ。見ていて何度も、そんなの投げだして逃げちゃえよ、そのほうがずっと幸せだよと、言ってやりたくなった。実際言った。家で。ひとりで。

 

ふつうの、むしろふつうより少し駄目なくらいの高校生の少年が、言い訳にできる一切の目的を持たないまま、罪を受け入れる痛みに耐え続ける。そしてその中で幾度となく間違えて、人間性を限界までそぎ落として、なのに最後の最後まで報われない。

ギルティクラウンはそういう、あまりにも主人公に厳しすぎる物語だ。彼が過酷な現実のなかでこころを摩耗させながら、それでも最後まで心のよりどころとした楪いのりが( 集のいないところとはいえ)その姿を「 誰よりも人間だった」と評したのは、この作品のなかにある数少ない、桜満集に与えられた救いだったように思う。

 

画面演出・音楽

うっかり書くのを忘れて最後になったけど。ギルクラはアニメーションとしては文句なしの完成度を誇る。よく話題になるのは四話、十九話あたりの戦闘シーンやOP映像だけど、それに限らず毎回戦闘は派手でおもしろいし、キャラクターもかわいく動く。画面演出の簡潔さ・ドラマティックさは物語のスピードに拍車をかけるもので、毎回のヒキもうまい。

音楽もとてもいい。EGOISTによるOP・ ED・ 挿入歌はどれも何度でも聴きたくなるし、劇伴も極上。澤野弘之の劇伴というと、『 キルラキル』『 七つの大罪』など目立ち過ぎている事もちょくちょくあるしNHKで流れるとビックリしてしまうくらいとにかく味付けが濃いのだけど、ギルクラくらい尖ってややこしい作品だとこれがちょうどいい。曲名も比較的ふつうだし……。

*1:だから、おぼえてる二割をいつまでも気にするか、スピード感に酩酊して忘れてしまうかが、その人がギルティクラウンを好きになれるか否かの分け目になるんだろう。

*2:展開スピードの弊害で出た描写不足といってしまえばそれまでだけど。

カラオケは煉獄

私は集まるオタクが嫌いなんだ。とくに学生の。あいつらはオタク趣味を持たない運動部とかの高校生とたいして変わらないしなんならそれら以上にタチが悪くてそれら以下の魅力しかないくせに、自分以外の高校生の正しさを認めず「 自分たちは普通とは違うのだ」と思ってやがる。

その中でも部活やらサークルで集まっているオタクはいちばん嫌いだ。スポーツとか楽器とか練習する根性も部活でやりたいこともクラスの教室で一対一のコミュニケーションから交友関係を作っていくスキルもないくせしていっちょまえに「 仲間」だの「 居場所」だの求めてとくに何もしないオタクばっかりの部活に所属し、自分と同じくらいみじめな同年代と集まって傷をなめ合って安心して。アホか。

とかなんとか。そういうことに気付いたときにはもう後の祭りで、私が「とくに何もしないオタクばっかりの」文芸部に所属してからすでに二年が経過しており、私の嫌いな集まるオタクたちが私の嫌いな大人数でのカラオケに出かけ私の嫌いなふうに盛り上がる「 新入生歓迎カラオケ大会」という名の私の心の中の悪魔を召喚する儀式の開催が一日後に迫っていた。本気で憂鬱だった。

 

文芸部のことを考えるたんびに「ミスったなー」と思う。創作について語る文芸部員も彼らの創作も恥ずかしくて見てられないし、ノリにもついていけない。ぼくは自分でつくるのが苦手で、それより受け取ってとやかく言うほうが好きだから文芸部である意味もない。とりあえず〆切が来たら書評とか即席の掌編小説とかポエム(笑)とか出しているけどそれもそんなに楽しくない。完全に所属する集団を間違えた。というか集団に所属するという選択自体が間違っていた。なんにもしないで家でぼーっとしていたいならそれはそれできっぱりと帰宅部になってしまえばよかったのだ。

わかってはいる。私と私の忌み嫌う彼らとの違いってのは「 文芸部を嫌っているか否か」ってだけ。ばかなのは自分のいる環境をわざわざ積極的に嫌っているこっちのほうで、悪いのも自分が所属する集団の選択を間違えたこっちのほうだ。彼らと同じくスポーツとか楽器とか練習する根性も部活でやりたいこともクラスの教室で一対一のコミュニケーションから交友関係を作っていくスキルもない私があすこに所属するのを決めた理由は、帰宅部になるのがなんとなく嫌だったからだ……と、今まで言っていたけれど、たぶんそれは建前で、本当はやっぱり私も仲間とか居場所とかいうのが欲しかったんだろう。そしてその居場所づくりに文芸部で失敗したから、その理由をここまで書いたみたいな愚痴でもってあっち側になすりつけている。

そんなぼくでも歓迎会にきちんと誘ってくれる後輩たちはやっぱり私よりもえらいし人間的にきちんとしている。最初に書いたみたいな彼らの醜さはたしかにひどいものだけど私はそれよりもさらにひどいのだ。っていうか卑屈だなこの記事。ひさびさの更新がこれはひどい。私自身の人間性よりなおひどい。

 

まあだいたいそんなこんなでぼくは、あとで後輩にいろいろ言われるのを覚悟して「 寝てた」とごまかしドタキャンする決意をかためて、友人と出かける予定を組み、そして自分より人間性の面で勝る文芸部の面々をせめて学力だけでも上回ってやるため、大学受験に向けた勉強をした。三十分だけ。

デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ

春休みは昨日が最後だったので、まあ当然というか、今日は約二十日ぶりに制服に袖を通して学校へ赴くことを強制され、ロックンロールにあこがれるわりに反骨精神に欠ける私はそれに唯々諾々と従った。

目覚まし時計と母が華麗なコンビネーションで私を起こしたのは七時ちょうど。こんなに早く起きるのは本当に前学期の終業式以来であった。春休みというものは決して長くはないけれど、午前三時に寝て午後一時に起きる自堕落な生活習慣を体に馴染ませるには充分すぎるほど。昨日もその生活習慣に従い午前三時に寝た私はそのときまだ四時間と眠っていなかったから、頭痛と残留する眠気はすさまじく、朝食代わりのミルクコーヒーを二杯飲み終えるまで半分死人状態であった。

 

メインイベントであるはずの始業式の記憶は一切ない。着席と同時に睡魔に意識を刈られたものと思われる。教師の離任式も続けて行われ、定年退職するベテランの先生の涙をさそう素晴らしい挨拶や、今年から行われる大きな教育方針の改革に関する説明もあったらしい( と、あとでクラスメイトから聞いた)。しかし名前と顔が一致しないような、ただのよく知らないオッサンのために割く時間はあいにく私の忙しない人生には存在していないし、あと一年足らずでオサラバする学校の教育方針なんて知らない芸能人同士の結婚報道並みに興味がない。

最後の全校生徒に向けた起立・ 礼の合図で覚醒を余儀なくされ、そのままふらふらと教室へ戻った私を待っていたのはロングホームルーム。周りのクラスメイトには私の目に映る限りたいした変化がない。髪を切っていたり、切っていなかったり。すこし日焼けしたり、していなかったり。ただ顔持ちには新年度への期待か受験への不安か、皆一様に若干の緊張が含有している。

そんな諸々を心の底からうらやましく思う私は、前髪が野放図に伸びて墓場鬼太郎のごとく、肌は日焼けどころかむしろ青白さを増していて、そのうえ顔持ちはくさったしたいもかくやという弛みっぷりである。何処で差がついたのだろうと漠然と考えるその指向速度さえ冬の蠅のようにのろのろとしている。

しばらくして教室へ入ってきた担任の先生*1はまず、全員が教室に揃っていることへの喜びを口にしたあと連絡へ移った。配られるいくつかの書類とあんまり興味がないし実際関係のない連絡事項のかずかず。そんなものは伸びすぎた前髪をアイマスク代わりにまた目を瞑っているとすぐ終わった。

途中、新年の意気込みを原稿用紙一枚に書けという指示が出たのでそのときだけは起きていた。しかし原稿用紙一枚にまとまる意気込みなんてものは果たして意気込みと言えるのかどうか。思うには思ったがそのままを書くのはやめておいた。そういう奇矯な振る舞いでいちいち自分の中の中学生を揺り起こすのはあまり賢明な行いではない。ゲームを控えますとか授業中寝ませんとかそういう適当*2な文言でお茶を濁した。

 

ホームルームも終わるころには午前十一時を過ぎ、二時間は軽く寝たわけだから眠気はずいぶん解消され頭もいくらか冴えていたが、起き抜けに四十分と少し歩いたことで疲れた私は電車で帰ることにした。

家の最寄駅まで戻ってくると駅の前に長い行列ができている。何かと思えば通学定期の申し込みらしい。そこに並ぶ学生たちの制服は私の家から一番近い、けれど学力の不足によって進学を諦めた学校のもので、少々複雑な気分になった。
そこに畳み掛けるように私は、桜の樹が満開に咲いているのと出くわした。立体駐輪場すぐそばに咲き誇るそいつの花びらは薄絹の切れ端のようで、ひらひらと落ちて道路に薄紅色の海をつくる。

私が思わず立ち止まると、花びらの集積の上を一台の自転車がさっと通って、車輪のスポークが巻き起こした風が花びらを誘う。十数枚がそれに応えるが、秒速五センチメートルなんて速度で降りてきた彼らに自転車に追走する力なんてものあるはずもなく、数秒で力尽きてしまう。

いかにも情趣あふれるその光景に触発され、そのフラッシュバックするいくつかの記憶。その中には今朝見たクラスメイトの爽やかな顔つき、通学定期の列に並ぶあの学校の生徒の制服まで混じっていて、容赦なく私の自意識を蝕む。ぬるいリセット願望が急激に膨れ上がってはちきれそうになり、それにさらに拍車をかけるのは脳内でループする『 旅立ちの日に』の前奏のピアノ。

いやいやその手は食うか、と心の中で叫び現実世界で誰に向けるでもない苦笑いを浮かべた私はすぐさま高校二年間のすべてをかけて形成した自意識保護プログラムを〇コンマ一秒で起動させ、桜の樹の下にグロテスクな動物の屍を幻視してその美しさを減退させ、イヤフォンをはめて外界から精神をプロテクト、その場をすぐさま立ち去った。

そのときイヤフォンで聴いていた曲の名前はタイトル通り。だから帰る途中、私が「 キャットフードぶちまけた気分ってなんだよ」と上の空になって二回転びかけたのはチバユウスケが悪い。

*1:三十前後の元気溌剌とした国語教師。とてもよい人なのだけど、私にヘンな期待を寄せているらしい。お世話になっている方にこんなことを言うのもナンだが、人を見る目がない。

*2:むろん、消極的な意味で。

故人をネタにしてこんな記事を書いたことを深く謝罪し、しかるのち、自分語りに移らせていただきたく存じます。

今日の昼は図書館に予約した本を受け取りに行ったのだが、そこから帰る途中、祖父の亡くなった病院の前を通りがかった。

そういえば祖父の葬儀は姉の大学受験のすぐあとだったから、あれからもう三年が経っているのだ、と思い出す。

 

その日のことや、お通夜、お葬式のことは何だかよく覚えていない。でも涙を流した記憶はないし、母の言うには家族みんなにこにことしていたそうだから、やっぱり私は泣いてはいないのだろう、と思う。

それはべつに私の精神が特別強靭だからとか家族に冷淡だからとかいうのではない*1。ただ、その二ヶ月ほど前から祖父は病気で入院をしていて、もしかしたら、という話を前々から聞いていた、というだけのことだ。そのために私が祖父の死におぼえる悲しみは死の直後にどっと襲ってきて思わず泣き叫んでしまうようなものではなく、それなりの時間をかけてゆっくりと、それこそこの間の茹でガエルの話だけど、私が気付かないほどに緩やかに降り積もるものになった。泣かなかった、というか、泣けなかったのだろう。私が自分の悲しんでいるのに気付かないうちに、祖父はすっかり居なくなってしまったし、それに気付いたころにはもう、私は祖父の居ない世界に慣れてしまっていた。

 

私はすこし煤けた大きな病院の壁を、遠巻きに数十秒、見つめていた。あの病院は祖父が入院するすこし前に改装工事を始めて、それが終わるちょうどそのころに祖父は亡くなった。

私はその壁の煤けかたに、そのまま祖父の居ない世界に流れた時間を見ていた。三年っていうと、長い。ちょっと具体的に世界にどんな出来事があったのかは存じ上げないが世界もそれなりに変わったはずだし、私たちの家族も変わったろう。祖母はひとり暮らしになって姉は家を出て下宿をし始めて、私は高校生になって。母はなんだろう。ピロリ菌を除去したという話は聞いた。

 

祖父はとてもまじめな人だった。何につけても落ち着いていて、立ち居振る舞いも静かだった。全体的に小うるさい私の一族のなかにいると、一人だけ浮き上がるように言葉少なで、感情を表に出すこともなかった。祖母すらも、怒ったところを数えるほどしか見たことがないという。笑うときでも、「は、は」と、ふたことだけ宙に置いてまた仏頂面へ戻った。祖父は私よりも初孫の姉をよく可愛がったが、話すのは私のほうが多かったように思う。たまに、少しだけむずかしいこと、人生哲学みたいなことをぽつぽつと話してくれた。

とか。

そんなことを懸命に思い出しても残念ながら泣けなくて、ただ故人をダシにむりやり泣こうとしている自分への虚しい軽蔑が積もるだけ。なんだか悔しい思いでそのまま数分そこへ突っ立っていたらジョギングの人が通りがかって私をすこし怪訝そうな目で一瞥したから恥ずかしくなって立ち去った。

そういえばむかし、私は祖父に憧れて、あんなふうになりたい、と思っていた。近づけているだろうか。祖父の生前より私が明らかにうるさくなっていること、そのことを書いてる途中で思い出したところを考えると、少し、怪しい。

*1:私はどちらかといえば涙もろいほうだし、祖父のことはとても尊敬していた。

眠りの浅瀬でカエルを茹でろ

私の寝室の枕元には、寝る前に本を読む用の電気スタンドが置かれているのだが、ここ1ヶ月ほどそれの調子が悪い。電球を変えても直らなかったからたぶんスタンドの接触か電線の具合の問題だと思うのだが、スイッチを入れても一瞬パッと光って消え、点けなおしても数度の点滅の後また消える。電球を押さえつけたり、コードの位置を調整したりねじれを直したりしてもう一度試して安定して光り出したとみえても、数十秒ですぐ消える。

そんなんなので毎度毎度、電気スタンドがちゃんと点灯するまで、何回か電球やら電線やらをカチャカチャやったりスイッチを入れたり切ったりする必要がある。

昨日の寝る前もそれをやっていたのだが、そのときふと、点灯の試行回数が一ヶ月前よりも明らかに多くないか、ということに気付いた。最初にスタンドの異常に気付いた時には数度で済んでいたはずのことを、もうそのときかれこれ5分近くカチャカチャパチパチやりまくっていたのだ。

それに私がそのときまで気付かなかったのはおそらく、ここ1か月で徐々に徐々に電気スタンドが点灯しづらくなっていったからなのだろう。人間、緩やかなものなら状況の変化には気づきづらいものだ。と、茹でガエルの話を思い出していた。*1

あれは本来会社なんかのビジネスの場において使う言葉らしいけど、毎日の生活を送る人間というものもまた、この哀れなカエルにかなり近いと思う。

私みたくどれだけ平坦な人生だの生活にハリが無いだの言いながらただ冷めていくだけのぬるい鍋に浸かっているつもりでいても、その温度は私の気づかないうちに、私を殺さんと上がり続けている。ほらまた指の先の爪は伸びて前髪は驚くべき勢いで私の視界を侵蝕し、それとはまた別に視力はどんどん下がり、積読冊数とBDレコーダーの録画時間と母の体重は増えたり減ったり、私の大学受験と姉の就職(あるいはフリーター化)は着着実に近づいて、3月だってあと3日で終わり。そんなこんなを繰り返すうちに、どんなに遠く見えたって、死の訪れる日はちょっとずつでも近づいてきている。

生活の水に浸かる人間というカエルの悲しきは、最初から自分の入っている鍋が火にかけられていることを最初から知っていることと、だからってそこから飛び出せば死んでしまうこと、それを有益と思えないのならただ自分が茹で上がるのを待ち身を焼き意識を奪おうとする熱にひたすら耐え抜くしかないことだ。

カエルがせめて幸せに茹で上がりたいと願うなら、自分がこの鍋に浸かっているのは嫌々やらされているのではなくて、自分がそれを望んでいるからだ、と思えるようになることじゃあないだろうか。思い込むのではなくて、心の底から自然にそう思えるようになること。自分にはそんな日が来るだろうか、この最低で不満で地獄みたいな日常を、自虐的な薄笑いも浮かべないで愛せる日が。ちょっと想像つかないけど。

昨夜の私はまあ大方そんなことを考えながら、10分に及ぶ電気スタンドとの格闘の末についに諦め、そして目を閉じねむるまでの間に、母に電気スタンドの買い替えを提案することを決意したのだった。

*1:カエルを2匹連れてきて、片方は熱湯の入った鍋に、もう片方は火の上の水の入った鍋に入れると、熱湯に入れられたほうはすぐに逃げ出すのに対し、水に入れられたほうは徐々に温度が上昇していることに気付かないまま、茹で上がって死ぬまで浸かっている、という話。実際のところ、水温の変化に敏感なカエルは温度が上がれば上がるほど激しく逃げ出そうとするらしいが。

春期休暇

おとといが学校の修了式だったから、今日でもう春休みも二日になる。

しかし40日近い圧倒的な長さを誇る夏休みや年越しという一大イベントをもつ冬休みに比べて春休みというのはちょっと地味すぎると思う。3月下旬~4月上旬って、花見に行くには微妙に早い時期だし、20日弱という期間も、なにか目標を立ててそれを成し遂げたりするにはあんまり短すぎ、かといって無為に過ごすにはちょっと長すぎる。そのくせ宿題は一丁前に出てくるのだから憎たらしいことこの上ない。

物語においても、春休みというのはなかなか舞台とはならない。学校世界のうちで語られる物語はたいてい、長い場合は春休みの終わりとともに始まって次の春休みの始まりとともに終わり、短い場合は夏休み中に始まって夏休み中に終わる。春休みなんてのは架空世界でだって物語の在り得ない期間なのだ、ましてや、この春休みの主人公は世界最大の物語群生地・夏休みにすら何もなさすぎてただ薄暗い自室で人生哲学をこねくり回して変なかたちにしてネット上に公開したりしていた私だ。逆に、何なら起こりえるのか。誰か教えてほしい。

だいいち、私は春という季節が嫌いだ。死体の上に根を張るおぞましい植物の花が咲き乱れ、新生活だの入学式だの言って慣れた土地や落ち着いた生活から離れなければならず、人も獣も暖かさに浮かれ、所も構わず繁殖行為に必死だ。テレビをつけても松任谷由美の『春よ来い』の明らかに本人の歌唱力を超越したメロディに乗せて文語と口語の入り混じった居心地悪い歌詞が流れている。

春はいつだって我が愛しき冬を打ち破り、寒さを言い訳に体を縮めて家に閉じこもり生産性のない物思いにふけっていた私に、開放的であれ、外へ出ろ、なにか新しいことをしろ、と強制する。春は私に内省的であることを許さない。その点、暑さでおかしくなった頭で自己嫌悪をいじくり回せる夏や、誰彼かまわず問答無用でおセンチの沼へ引き擦り込んでくれる秋のほうがずっとマシというものだ。

しかしそんな嫌な春休みだが、終わってしまうのもそれはそれで困る。なぜかって、これが終わったら私は三年生へ進級して受験シーズンへ突入してしまうからだ。まったくもって、陰鬱である。つらい。だるい。こういうのを十三階段を登る心持ちというんだろーかとか、でも結局ただの被害妄想だよなとか考えながら、参考書も開かないでアニメ観て小説読んでごろごろして。そんなこんなでたぶんまた何一つ成し遂げないままに、高校最後の春休みも終わる。

自己陶酔と回想、及びふたたびのドーナツ

今日は良く晴れた良い休日だけど、昼まで寝て、起きても部屋に寝っ転がって、こうやってネットサーフィンに興じている。そうすると当然ながら、なにやってんだ俺は、という気持ちが浮かんできた。

クラスメイトは皆様きっと今ごろ私不在の学校世界で、昨日より速く投げられるようにとか先週より良い音が出せるようにとか前回よりいい結果を残せるようにとか考えて部活動に励むなりなんなりして汗とか涙とか流していることだろう。その耳にはあの、金属バットのかきーんと鳴るのとか、テニス部の文字に起せない掛け声を叫ぶのとか、吹奏楽部がしらない曲の練習をしているのとかが入り混じった、学校の音が聞こえているはずだ。しらんけど。

一方、私。今日も今日とて自室のフローリングに寝っ転がってずいぶん昔に読み終えた漫画本を読み返したりtwitter上に自分語りを投下しまくったりという行為に興じている。耳にはイヤフォンがすっぽりとはめられていて、どっかのバンドの聞き取れないけど美しいはずの日本語と音割れしまくってるけどうまいはずのギターとが骨伝導で聞こえている。その脳みそに向上心は微塵もなく、ただ私はぼんやりと、将来の不安と、誰とは言えない「みんな」に対する劣等感と、それからそんな自分への屈折した陶酔とを、どこへやるでもなく抱え込んでいるだけだ。

イヤフォンを外したら狭い部屋には痛いほどの沈黙が広がって、差し込む日光に輝く塵のかずかずが一瞬空気中で静止したように思ったけど、当然のように気のせいだ。その静けさの中でも、「なにやってんだ」の自問はあいかわらず鳴りやむことがなくて自己嫌悪は延々生成され続ける。でもこういう時間とそれを過ごす自分のことは、けっこう好きだったりして、吐いた溜息には自分への失望や心労だけじゃなく、倒錯した満足感と陶酔も混じっていた。

 

ところで、おとといは3.11で、東日本大震災からまる五年が経った日だった。

東日本大震災が起こった当時の私は、まだ小学六年生だった。自分の周りでは何も被害がないのにふさぎ込んだ。同じ国でとても大変なことが起こっていると解っているのに、そこへ駆けつけて何でもいいから人の助けになりたい、と思って立ち上がれない自分が腹立たしかったのだと思う。大好きだったミスタードーナツハニーチュロも喉を通らなかった(またドーナツの話か)。今考えると情けない話だけど、まあ、ランドセル背負いながら世界を斜に構えて見てるつもりで悦に入ってるガキの精神強度なんてのは、まあ、えてしてそんなものだ。

しかし、そういうことを思い出してると、いまの私の脆弱な精神でも、随分強くなったものだなあ、と思う。偽善でも立ち上がらなかった過去の自分への怒りとか、もはやそんなこと思いもしない現在の自分への軽蔑とか無いわけじゃないけど、そういうおのれの悪徳と正面から向き合わないで誤魔化す術がいまの自分にはあって、その御蔭で3.11にも何を躊躇することもなくミスドゴールデンチョコレートとかモリモリ食べることが可能だった。まあ、簡単に言うとただひねただけなんだけど。

 

ああ、あと自分の精神の成熟でいえば、先日引っ張り出してきた、いまの高校に入学してから二日後にしたこんなツイートの話とかもしたい。

我ながら、よくもまあ何度読んでも趣深い文章を書いたものだ。たった二日間で既に周囲の人間の知性を計り終えている二年前の私の洞察力は凄いぞ。

今の自分もじゅうぶん恥ずかしいけど、さすがにこういう、明らかに中学生くさい感性をひけらかすようなツイートはしてないと思う。この頃の私はまだ、特別な存在になれない自分を恥じて、奇矯な振る舞いによって特殊な存在になることに逃げていた典型的な中二病患者で、当然のように周りを見下していた。

いまの私はまだ中二病から抜け出せてはいないけど、これでもだいぶマシになったと自分では思う。少なくとも上のツイートをしていたころ*1よりは。クラスメイトはみんな(苦手だけど)優しくて尊敬できるところがたくさんあるし、特別への渇望ももうそんなになくって、特殊であることをある程度恥じられるようになってきた。

 

でも、私が昔と比べて一番成長したのは、こういう諸々の自己嫌悪を引き起こす事象を、楽しめるようになったことではないかと思う。

もちろん自己嫌悪がないとは言わない。誰かを助けたいという気持ちが沸かない自分には腹が立つし、いまだに中学時代のみじめな精神性を捨てきれていないことは情けなく思うし、こんな天気のいい休日に家に引きこもってネットサーフィンに興じているような現状に不満がないわけじゃない。

でも、そういう鬱屈とした感情も含めて、私としては結構楽しかったりする。だって母親のザップするTV画面に映る被災地の現状を死んだ眼で眺めながらコーヒーを飲む私はよそから見ればいかにもネクラの高校生という感じでおもしろいし、中二病をしきりに分析しながらいまだに抜け出せていないこの状態はあの頃求めていた『特殊』にかなり近いし、晴れた空を窓越しに眺めながら食べる、クリスピークリームドーナツのオリジナル・グレーズドの殺人的な甘さは最高だ。

今の生活は正直昔思い描いていたものとは違うし、今だって満足できてるわけじゃない。それでも中二病の残骸や父親の幻影から必死に逃げまどいながらこんなメチャクチャな自分語りをネット上で展開するこんな自分も悪くないと、ようやく思えるようになってきたのだ。

あと数日で終業式が来て、私のこんな高校生活も、まったく実りのないまま三分の二が終わってしまう。でも、こういう「それはそれで」の精神を持てるようになったことだけはまあ、ここまで二年間の成果だといえないこともない、かもしれない。

*1:書きもしないラノベの設定を考え、良さのわからん洋楽を聴き、にがいコーヒーを我慢して飲み、近所のパン屋さんのあんぱんばかり食べていた。そのあんぱんは牛乳とともに喰らうと極上で、今でも好きだ。