「 コンクリート・レボルティオ」をみました(とりあえず二話まで)

二クール目、THE LAST SONGはのちのち別記事をもつことにして、とりあえず一クールみたとこの感想を、一話ずつ分けながら書きつけておこうと思う。できるだけぼやかしていきたいけど無意識のうちにこぼしちゃうネタバレもあると思うので、未視聴のかたは避けたほうがいいかも。

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第一話 東京の魔女

まず最初に目を引いたのはビジュアルだった。影がすくなくビビットな色付けはさまざまな超人が闊歩する世界の異様さを、やけに凝った小物やファッションは昭和の空気感を、それぞれ説得力あるかたちで導入部から的確に示してくれた。サイズもデザインの方向性も全然違うヒーローたちが戦うバトルシーンにも目をひかれたし、あと、その。おっぱいのこだわりも、良かった。時系列や設定など不明瞭な状態から適宜設定を公開していくSF小説形式で情報を扱うので、最初の数話はちょいと分かりづらいところがあったが、この一話から一貫したビジュアルのおもしろさがそれをうまくカバーしてくれていたと思う。

一話の物語は導入部としてとてもよくできている。なんだかわからんが明らかになんかのパロディだな! というものの奔流に目をぐるぐるさせながら観ていくと、ドタバタと始まるストーリーは主要キャラの能力や世界観設定の説明をきっちり挟みつつ切ないラストへ導かれ、今後の展開への期待高まる謎に満ちた未来パートに収束。

正義の超人を冷徹にとり締まらなくてはならない制度、そのもとにある超人化という組織のいびつさを提示しつつ、そこに属しつつも正義の超人に対するあこがれを捨てきれない人吉爾朗という主人公のありかたが第一話のオチからすでにはっきりと表れている。

またその後の展開の布石らしきところものっけからちらほらと見受けられる。輝子の「二十歳になりました」はきっと、大人と子供との断絶を描くこの物語においては、のちのち重みを増してくる重要なセリフだ。

 

第二話 「黒い霧」のなかで

「 昔はよかった」ってよく言うけど、案外そうでもないんじゃないかと。そんな問いかけを、いつまでも子供のままでつねに時間流にとり残されつづける存在、オバケの風郎太の視点から、過去と未来を行き来しつつ描く話。いやー、いきなりエグいことをさらっとやりやがる。こんなこと言うのもナンだがコンレボのシナリオは相当拗らせてるよ。ちょっとどうかと思うよ。

今回はここまで観てきた十三話のなかじゃダントツで過去・未来の扱いかたがうまい。神化四十二年と四十六年のあいだにある出来事、人吉爾朗を超人課から抜けさせた断絶は、このエピソードでは善悪二元論の消失というかたちで現れている。正義だと思っていた行為が、じつはある側面では悪でもあったことが判明する、という流れだ。ここに、正義と悪にきっぱりと世界を二分するモノのみかたが子供だましの幻想でしかない、というこの世界の残酷な現実性があらわになり、神化四十六年のシーンで風郎太はそれを嘆く。

重要なのはその世界の残酷さを分かりきっている人吉爾朗が、過去編でも未来編でも、風郎太の子供っぽさを否定せず、むしろそのままでいろと全面的に肯定するところにあると思う。超人がいつでも正義とは限らないし、超人課は決してヒーロー集団じゃない。そこを割りきってしまったほうがやりやすいと分かっていても、それでも爾朗は、さっき言ったような子供じみた幻想を信じる純粋さを捨てたくないし、そのために、それをいつまでも持ちうる風郎太を必要とした。

ここに、どうしても失われてしまう子供の無垢なこころのような過去のうつくしさを、惜しまざるをえない大人の哀愁、という、コンクリート・レボルティオのひとつの芯がはっきりと見える。それはむかしの作品のパロディを多用するこの作品の制作者にもそのまま適用できることだし、「 これは古い人間のノスタルジイだ」という脚本家の強烈な自覚がうかがえ、この作品で多用されるパロディの必然性を知ることができる。どうやらこの作品はただの超人パラダイスじゃない、懐古趣味がつくったキメラじゃないぞと、ぼくはこの二話で実感した。

これはキャラクターどころか制作側まで総出で、子どもだった自分、昭和のころの思い出といった過去と格闘する物語だ。それを見届けるからにはこっちだってそれ相応の覚悟が必要だろう。コンレボのストイックさ、容赦のなさが存分に表れたエピソード。

 

三話 鉄骨のひと

村上龍「 海の向こうで戦争が始まる」を読んだ

同著者作はついこないだデビュー作から入ったので、折角だから発表順に追っかけてみようというこころみのもと、とりあえず、二作目であるこの作品を読んでみた。前作とくらべると、さすがにはじめて村上龍にさわった衝撃がないぶん読了後の感慨は比較的ちいさいが、読んでいる最中に要した体力、驚かされた文章表現のかずはこっちのほうが頭一つ上まわる。とにかく村上龍という作家の、巧さを思いしらされる作品だった。

 

前作、「 限りなく透明に近いブルー」もいいかげん物語性がうすくて純文学然とした作風だったけど、この「 海の向こうで戦争が始まる」にはいよいよ具体性がない。どこでもない国の海辺で出会った、フィニーという女と名前のない「 僕」との幻想、海の向こうの街のビジョン。それだけで物語は強引に進行されていく。そこに起承転結もカタルシスもオチも、いちおうの筋書というようなものさえもない。物語の全体性というベールをはがしたその奥の、剥きだしの肉体性、村上龍文学の熾烈さと、読者はこの小説で対峙させられる。

 

けれどその一方でここに描かれているものごとはどうしようもなく具体的だ。街の風景、ごみのにおい、殴られた時の痛み、血のぬるぬるした感触、そういった感覚の描写ももちろんのこととして、海の向こうの街のひとたちの人物像も、外見、家族構成からその性格と趣味嗜好にむかしの思い出、そして彼らのもつ残虐性や破壊への欲望まで。登場するページ数に似つかわしくないほど濃密に細かく描写して、タイトル通りの戦争のはじまるまで、とにかく街のすべてを語りつくす。

ぼくはこの、語りつくす、というところにこの作家の特質を見た気がする。小説という限られた枠のなかに、自分の世界観や人間観のようなはてしない大きさものを入れるとき、村上龍はそのなかの全体を想起させる一部分を切り取って枠におさめる、というような手法を使わない。とにかくすべてを圧縮して圧縮して、描かれるべきそのままの姿を小説につめこむ。それはいろんなひとがやりたがることだけど、解釈の余地を与えないほどの情報量、肉体感覚を凌駕するほどの熱量をもつ、あの文章が書ける村上龍にしか、たぶんできないことなんだろう。

 

この小説で起る、カップルがみる海の向こうの街の「 戦争」は、実のところ戦争ですらなくて、一方的な虐殺だ。戦争を実行する兵士にも爆弾にも、敵対者はいない。ただ理由なく街と人を破壊していくだけだ。それはきっと純粋な残虐性や破壊への欲望といった、ここまででひとりひとりの街の人物たちのなかに描かれてきた破滅的な衝動、その発露に過ぎない。

破壊の描写はこれまでと様変わりしたように淡々として無表情だけど、だからこそ読む側を疲弊させる息ぐるしさをはらんでいる。そこまでの、前述したよーな濃密な描写で深く知り、明確なイメージをもってある程度の親しみすら感じていたひとが、街が、当然のように破壊されていくのが耐えがたい。その苦痛が思考の速度を上回ったときの放心状態は恍惚に似て、読んでいる最中のそんな感情の変化と同期するように物語は、「 僕」とフィニーのたわいなくて美しいやりとりのなかに収束する。

半分くらい読んでから気づいたことだけど、この小説で描かれる海の向こうの街のビジョンは読んでいる最中のこちら側の精神の変化とまるで同じように動いてとじていく。ぼくが濃密な描写に疲弊する、それと同じように街の退廃的な描写が続いて、それがある程度まで達したところで文章の情報量が思考を上まわってぼくの意識は熱に浮かされたようになる、するとただ殺すだけの戦争は始まってすべてが破壊されて終る。

しかも、読んでいる最中ぼくのこころは目まぐるしく動いていくけれど体はただ椅子に座ってページをめくるだけ、というその様子さえ、「 僕」とフィニーがコカインを打ってただぼんやりと海の向こうを眺めるのと同じように作品のなかに映っている。

それをまるで鏡みたいだな、と思っていると、最終ページ、

すでに太陽は海面で跳躍するのを止めている。

この最後の一文を読んでぎょっとする。日が沈んで、海が太陽の光を反射するのをやめる、それと同じくして小説は終って、 「 海の向こうで戦争が始まる」はぼくのこころを映すのをやめる。徹頭徹尾、この小説は読者の心を映しつづけるのだとぼくは気づく。

 

物語を追っかけていると突然自分の存在にとても似たものをみつけて、なにかたいへんな真理に肉薄したような熱狂に陥る。この作品は、小説というのはそういうものだと、村上龍本人がデビュー作「 限りなく透明に近いブルー」を書いて気づいたことに根ざした、そんなある種の実験だったんじゃないか。

あとがきにある「 小説は麻薬そっくりだ」の文言は、「 俺が生きてる時は注射針が腕に刺さっているときだけだ。残りは全く死んでいる。残りは注射器の中に入れる白い粉を得るために使うんだ」という昔の友達の発言からきたものだけど、ただそれだけの意味じゃないような気もする。小説を書いている最中の興奮は麻薬に近いんだ、とか。うーん、どっちもやったことないから、どっちがすごいのか釈然としない。

時計回りの

グラウンドがきのうの雨で濡れていること、クラスメイトが大声で、こんなに晴れてんのにと、嘆く。窓外、たしかに運動場は水たまりが世界地図みたいにたくさんできているのに、空にはきれいな入道雲が出ていて雨の気配なんて微塵もしなかった。明日も雨らしいよと誰かが言う。もう六月だということをぼくは今更のように意外に思う。というかもうテスト二週間前だ。まー、もうテスト対策なんてのはやめたからそんなに気にもならないけど。

センター試験まであと何日か、右斜め前の席で、計算しているひとがいる。大学受験が近づく、そのことを思うたびに、沸きあがる感情は不安とかやる気とかじゃなくて、漠然とした焦りだ。あとはこれまでの人生についてのいろんな後悔。もっと勉強しときゃよかった、もっといい高校入っときゃよかった、はじめ、さっさと死んどきゃよかった、など。もろもろ。ぼくが見ているちょうどそのときに、黒板のうえの壁に立てかけられた十二時〇〇分を示した。長針と短針が重なって、その間に挟まっていた嚢がぷちっと潰れてなかの液体がこぼれ出す、それをひっかぶる、みたいにまた新品の後悔がぼくに染みつく。こういう言いまわしを無限に量産しているとあと一五分の授業は当然のよーに終った。

 

「 こないださあ、」

昼休み、ご飯を食べおえて本を読んでいたぼくに、隣の席の彼は、どこで習得できるのそれ、と不思議に思えるほど爽やかな笑みで話しはじめた。部活のごたごた、部員だけじゃなくて顧問の先生も巻きこんだおおきな対立。おなじ学校のなか、けど絶対に踏みこめない領域のひとたちのドラマ。ぼくが持たない美しさの、代償としての苦しみについて。たいして彼がなんでぼくにそんなことを話したか。ぼくなんかに相談がしたかったわけではないだろう。たぶん、愚痴だ。ただの世間話だとは考えたくなかった。彼にとってそういうことがただの日常の一コマでしかないなんてことは。同い年の彼がそんな苦しみに慣れきっているんなら、話を聞いているだけでこんなにも悲しんでしまう、ぼくの精神はなんだ。

そんなことあるんだ、たいへんだねと、相手に合わせるように精一杯の笑みをつくりながら、できれば相手に不快感を与えないよう、極力言葉少なな相槌を打った。ひとしきり相手が喋りたおしたところで会話は終って、彼はなんでもない顔で机の上の参考書に視線を落とした、ぼくは頬杖をついてなんともなしに天井の角をながめた。教室の壁は自分の部屋の壁よりいくぶんか黄いろい、黄ばんでいるんだろーか。ながい時間がこの校舎にも流れてきたんだし。

ぼくにも十七年、きちんと流れてきたはずなのになと、伸びた左の指さきの爪をながめた。体は確かに変化していて、まわりの環境も変わっていて。なのにこころがまるで前進していないんだ。ぼくの焦燥がきらうのは学校でも世界でもこの街でもない、自分自身、そいつはここから抜けだそうとしている。無理なのにな。ぼくは呼吸をするように、ぼく自身の悩みの矮小さを、つづけてクラスメイトを呪った。呪い殺してやる、一人残らず。その気骨をうまいこと闘争心に変換できるんならとりあえず、浪人はしないで済む、というような気がしているけど。でも闘争心なんてスマブラ以外で沸いたことねーな。やっぱりむりかなー。

 

家に帰って、伸びた爪はとりあえず切った。あと暇つぶしに計算してみたら、センター試験まではあと二百七日、だそうだ。明日は雨が降ったら、学校を休もうと思う。

昼休みに寝た話をします

ぼくの昼休みの過ごしかたは、図書館に行って読書をする、自習室に行って宿題をすます、イヤフォンをはめて教室で寝る、の大きくみっつに分けられる。どの選択肢にも自分以外の人間が登場しないのはご愛嬌だ。

で。今日の昼休みは、読みかけの本を忘れて、出すつもりの宿題もなかったから消去法で教室に残った。こないだ五千円弱で買った初代iPodのパチモン( 中国製)を起動してランダム再生ボタンを押せば、同級生の話声は「 そういやこんな曲入れてたな」的な印象のうっすい曲に上書きされて、そんでもってやっとぼくは安心して眠れるようになる。

数分経つと、枕にした腕の血流がちょっとずつ滞る、あの感覚が来る。ぴりぴり、ぴりぴりと、どんどん強くなって、限界まで達したところで今度は腕の感覚といっしょにすこしずつ消えていく、それと同期してぼくは自分がいまどこでどういう経緯で眠っているのかを忘れ、体全体が心臓とおなじリズムで脈動しはじめたかと思うとこんどは浮遊感につつまれて、考えごとがちょっとずつ整合性を失っていく、それを感じている間に眠りにつく。

寝てるのか寝てないのか判断のつかないところで、目が覚めたときぼく以外の世界のすべての時間が止まっていればいいと、半分夢をみるように考える。起きてみたらこの世界がまるっきり、ぴたっと静止していたらと。隣の席の生徒が気にする前髪はもう彼の目論み通りにはセットされず、雑に消されて白い竜巻みたいな模様になっている黒板はそのまま、旧校舎の屋根にとまるからすはもうどのゴミ捨て場も狙うことはなく、教室の隅っこで笑い合う男子バレーボール部員の会話は黒ギャルAVの話題から進まないし、夏がテーマのフリー素材じみてイラつく入道雲もそのまま形をとどめてくれたらいい。演劇部の女子部員の下品な笑い声も、怒っているのかそうでないのか釈然としない声音で生徒を呼びつける教師の校内放送も、窓外の国道を通る自動車のエンジンの唸りもそこにはないからイヤフォンだってもう必要ない。ぼくがその沈黙のさなかで目をさます。たぶん口をぽかんとあけて、口腔が乾いていくのを感じながら現状把握に努める。久々に自分の息の音を聞いて驚いてみたり、なんでもないふうを装ってまた寝たり、勉強をはじめてみたり。そんでもたぶんしばらくしたらなにか耐えきれなくなる。ヤケクソになって机のうえの消しゴムを投げる。でもそれも落下するまえに空中で、放物線を三分の二も描ききる前に静止する、ぼくはそれをつかんでみようと席を立つ。消しゴムはたぶん、ぼくが触れば思い出したように床にぼとりと落ちる。そのとき、きっとぼくの耳は、その音さえもうるさく感じるようになっている。

……と、いうふうだったらいいなーと思いながら、でも実際はいつも通りに、せっかく五限目始業のチャイムの音を爆音でかき消してもクラスメイトがいっせいに椅子をひいて立ち上がるのが床から伝わって目が覚める。ほかのクラスメイト全員といっしょに「 よんしゃんさしーす……」と八割がた吐息みたいな声とともに背骨をまげて座りなおす羽目になってその間にもそこここに時間は流れつづけ、汚かった黒板も日直の手によってずいぶんきれいになっていたりする。ぼくは前の席のクラスメイトにぎりぎり聞こえるかもしれないくらいの音量で死にてえ、と漏らしてまた机に突っぷす。ぼくの昼休みなんてのはまーだいたいこんな感じで、うえの必死こいた言いまわしはほんとうに昼休みにかんがえて授業中に整理したもんだったりする。

雨に唄えれば

雨は昼過ぎに数十分だけ、どしゃっ、と降った。それが止んだのを見はからってぼくはスピーカーの電源を切って、部屋の換気をする。音楽を流すときは近所迷惑にならないように部屋を密閉しているので、ながいこと聴きつづけていると部屋が蒸してくるのだ。開け放った窓から、涼しい風に乗っかって大雨が降ったあとのあの甘いにおいが流れ込んでくる。なんのにおいなんだろう、と考える。樹液とか花の蜜とかが、雨水に溶けて蒸発したんだと、てきとーな仮説を立てた。こんなことをグーグルで検索するのはちょっと、野暮だろう。自然にまつわる謎はほかの謎とくらべてもひときわきれいだから、できるだけ多くそのままにしておきたいと思う。

雨のことはそんなに好きじゃないけど、雨の日、家にいるのはすきだ。とくに雨の音がいい。家のすぐそばの木の葉っぱに雨滴が当たってぷつぷついっているのを聴いていると、きのう、小説を書いて出た疲労がちょっとずつ癒されていくかんじがした。

小説を書いたのは、中学の時いきなり超スケールのバトルラノベ*1に挑戦して数日で砕けちったとき以来だった。疲れた。心身ともに憔悴しきってしまった。しかもできたものの完成度はそれに釣り合わなかった。やっぱり創作にはあんまり向いてないんだなと再確認できた、その一点を見ればいちおう、意味のある行為ではあったけど。もう一度やるかって聞かれると。うーん、やらないよな。疲れるのはきらいだ。

まー、もちろん楽しくなかったと言えばうそになる、描写を重ねて重ねてガチャガチャ組みかえて、という作業がおもしろくなかったわけじゃない。でもやっぱりどれだけ薄いもの、ちいさなものでも、物語をつくるのはつらい。ひどくつらい。自分の体の肉を削り取って自分の手で成形しているような感覚だった。ぼくは小説がすきで、文章を書くのもけっこう楽しく感じるから、ついつい小説を書きたがってしまうけど、苦手な物語づくりが必要になってしまうからやっぱり、体力的にも精神的にも控えた方がいいと思う。物語をつくる必要なく文章を書きなぐれるブログが、やっぱりぼくには合っている。

あと書いてる最中、気が散るからって音楽かけないで無音の部屋に籠っていたのもよくなかった気がする。静けさが人のこころを傷つけるってはじめて知った。毎日ホームルームを騒がしくするのに必死なクラスメイトの気もちがすこし、分かった気がした。沈黙は苛烈だ、そのなかにいる人間の思考を内側へ向ける、その力があんまり強すぎる。

かといって、ざわざわとした、無規則な騒がしさは思考力を奪って、それもまた精神にはよくないから、ある程度の騒がしさと秩序のある音楽にぼくは精神の安定をもとめるんだろう。でも音楽を聴いていたって、製作者の意図を邪推してしまったりなんらかの感情を喚起させられたりしてしまうから、精神の安定にはやっぱり至らなかったりする。

だからまー、もの思いにふけるには、静かすぎず、規則的で、自然のものだから邪推する意図もない、雨音がちょうどいいんだと思う。ちょうどいい量の思考が削がれて適度に自分のことについて考えることができて、疲弊したこころが修繕されていく。あと何回、雨の日を過ごしたら、また小説が書けるようになるんだろう。それはちょっとだけ楽しみで、けっこう怖い想像だった。

*1:ちょっとだけワードに設定がのこっていた。禁酒法時代の舞台設定で元殺し屋のおじさんと人造人間の女の子が何でも屋やる話で、あー、なるほどね、オーケーオーケー、はいはいはい。というかんじだった。

ここ二三日のきもちわるいことリスト

こないだ、前の記事で描いたようにクローゼットを整理してから、部屋のにおいがすこしだけ変わった、というか、軽減された。ずいぶん過ごしやすくなったしこれで勉強もいくらか進むようになるかもしれない、とうれしく思うけど、それでいて、においが変わって快適になったこの部屋は、なんだか自分のいていいところではないという気がしてしまう。ぼくみたいなのがこんなに気持ちのいい空間に暮して、ほんとうにいいんだろうか。

 

受験に向けて、やっとちょっとずつ勉強をはじめた。まだまだふつうの受験生に比べたらずっとずっと少ない量だけど、毎日どれだけやるかを決めてすこしずつこなしていっている。まあいきなりうまくいくわけないし、けっこうな頻度でその少ない量すらこなせないまま寝てしまうことがあるけど、それでもここ数日でずいぶん安定してきたし、これまで一切勉強してこなかったことを考えればいちおう、進歩といえる。

ただ、毎晩机に向かって参考書を開くたびに、らしくないなと、自分が自分でなくなってしまったような不安感に陥って、ぼくのアイデンティティって勉強をしないことにあったのかと考えるとすこしばかり消えてしまいたくなって、そんでも参考書は閉じないで、この身体は数十分間、じっと勉強に耐えている、それがまた気持ち悪い。

このまま地道にやっていけばうまくいくかもと考えるたび、ぼくなんかの人生がほんとうにうまくいってしまっていいのかって疑わしくなる。だめなわけはないよな、とか自分を鼓舞してみる、それが何よりもらしくない。ぼくってこんな人間だったか。思い返そうとしてみるけどそもそも自分がどういう人間かわかったためしなんて一度もないから結論は出ない。そうこうしてると気づけば勉強の手が止まって眼球は参考書の空白の部分をぼんやりとながめていて、ああ、ぼくらしいな、と少し安心してしまう。

 

なくしてたと思ったお気に入りのイヤフォンが見つかって、LINEをブロックされた後輩とも仲直りができた、母親に怒られることも減って、席替えで窓際いちばんうしろの席を引き当てた。行きに通りがかったときはなにも植わってなかった田んぼに、帰りに通りがかったときには半分くらい稲の苗が植えてあってなんだか感動する。曇りの日に歩いて帰ったら、重苦しい青色が降る街は水のなかみたいできれいだと気づく。浸かった浴槽のお湯さえなんだかいつもより柔らかい気がして、夜更かしして勉強してたら窓から気持ちのいい風が吹いてきて報われたと思っている。

ここ数日で生活がちょっとだけど充実して、すてきなものを目にすることが連続している。空虚さばっかりが場所を取っていた精神も多少よくなって、物事もやや、前に進んで。でもなんだか、自分みたいなのがこんなに楽に暮らしてしまっていいのかなと、訝しむ気持ちがぬぐえずにいる。ほんのちょっとの、たった二日三日の話なのに。大げさだ、たいしたことない、って割りきれるようになれたらどんだけいいだろうか。きょうのぶんの勉強がまだ、終ってない。

精神的整頓

午前中いっぱいをつかって部屋のクローゼットを整理した。理由はお察しの通り受験勉強からの逃避だ。勉強しなきゃと思うと部屋を片づけたくなる、という学校でよく聞くあるあるに、これまで勉強しなきゃとか微塵も思ってこなかったぼくは、いまやっと同意した。実際に自分の体も動いて部屋もみるみるきれいになって成果がはっきりとわかるし、かといって勉強ほど嫌でもないし、なるほど、部屋の片づけはたしかに勉強からの逃避にはうってつけの行為だ。これからは勉強がいやになったら部屋を片づけることにする。受験が終わるころには、ここの部屋はホテルのようにきれいになっていることだろう。そしたら大学には落ちているけど。自室のうつくしさと進学先、どちらを優先するべきか。むつかしい問題なので考えるのに一年ほどかかりそうだ。

 

クローゼットはまあ当然のごとくひどい有様だった。小学校のときから、母親の目を逃れるためとか自分でその存在を忘れるために突っ込んできたさまざまがぐちゃぐちゃに蓄積して、すさまじく雑然としている。おまけに、くさい。カビとホコリの黄金タッグが絶妙なコンビネーションでぼくの嗅覚を破壊せんと挑みかかってきた。むせた。いそいで窓を開けた。

そんでも意を決して片づけを決行する。とにかく眼についたものを引きずり出して必要なものかどうか判断していくと九割九分九厘は必要じゃないものだった。押し付けられた文芸部の部誌。むかし気に入っていた服や中学の時の通学鞄がカビを生やして出てくる。失くしたと思ってたデジタルカメラの充電ケーブル。BUMP OF CHICKENの歌詞カード。ビー玉が五個、おはじきが十二個、オセロの駒が一枚だけ。いつのかわからないお茶のペットボトルは振るとちゃぷちゃぷいったので、目を背けて息を止めながら中身を洗面所にあけ、捨てた。むかし捨てそこねたもの、処理しあぐねたもの、いつか必要になると思ったもの。そんないろいろと対面してはゴミ箱へ移していく。むかしの自分と向き合っているような、このクローゼットには滞った時間が堆積しているような錯覚に陥った。体から遠ざけながらゴミ箱へ運んだわら半紙の、カビが時間を表象している。

 

途中、父の著書がかたまりでごそっと出てきて、ちょっとどきっとする。父親は本を出すたびぼくに一冊渡して、読んでおけ、という。でもだいたい経済学の小難しい話や哲学のうさんくさい話ばっかりだから読まないし、とりあえず部屋にうっちゃっておく。それを一度母親に見つかって、貰うなそんなもん、と激昂されたことがあり、それ以来ビビってクローゼットに押し込んであったのだった。

どうする、と母親に聞いてみる。『 なんでも鑑定団』を見ながら半笑いで、ああ売っちゃえ売っちゃえ、と答えた。両親の関係も時間の経過のおかげで、いくらかよくなっているのかもしれない。

 

燃えるごみは部屋のゴミ箱へ、ペットボトルは洗って分別、不燃ごみは勝手口の外、衣類はとりあえず洗濯カゴにと、二時間ほど作業を続けると、カビとホコリの臭いはほとんどなくなって、掃除機と雑巾をつかって埃や汚れを取り除けば、なにか空いたスペースにものを入れてもいいくらいにはきれいになった。これだけ整理されてりゃ引越しのとき楽だと、思ってから気づいたけど、この家この部屋に家族と住むのもあと十か月もないんだった。やった形跡のまるでない進研ゼミのテキストがゴソッと出てくる、小学六年生八月号から中学一年生五月号まで。このころのぼくはきっと、この部屋に自分は永遠に住み続けるから、母親がこの部屋に勝手に入ることなんかないはずだから、手つかずのテキストをここに隠したんだ。いつからぼくは一人暮らしを現実的に考えられるようになったんだろう? 思い出そうとしながらぼくは、すでに自炊の心配をしていた。その前に大学に受からなきゃいけないんだって、いつになったら理解できるんだろうかな。きのうの模試の問題冊子をてきとーに見直し、進研ゼミのテキストと一緒に縛って、古紙回収に出す。