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ねむすぎる

世界史の予習。たいくつだ。ぼくは趣味の傾向をかんがみるとふしぎなくらい歴史に興味がない。歴史ってのをどう楽しめばいいのかいまいち、わからない。知的好奇心とかもあんまりないし。自己実現がないから知ろうともしない。

「うそみたいな歴史的事実!」みたいなのをおもしろがる気持ち、あれがいちばんわからない。物語みたいだけど、現実なんだ、というのがいいのかな。でもぼくは現実味をもとめるなら現実に、物語性をもとめるなら物語にふれたいと思う。その中間になにかを置こうという気持ちが、いまいち。

物語ってのは実際に起らないからぼくの目に綺麗に映る。いい話だね、でもこんなこと、現実にはないんだよね。そういう悲しさが物語のうつくしさだと思う。それが、過去にあった事実、ってものには欠けてる。物語を文字や映像におこすこともそのうつくしさをかなり損ねるものだ。現実世界にはっきりとしたかたちで現れた、って時点でそれは部分的に「起って」しまっている。目を閉じてから眠るまでのあいだにどんどん破綻していく思考とか空想のなかでたどる知らない街の道すじ、あとはそれこそ、夢。そういうのがいちばん綺麗な物語だ。もしぼくがめちゃくちゃ素晴らしい物語を思いついてしまったら、がんばってがんばってそれを何かのかたちにおこすのを堪えて、自分のなかで忘れていくものにしたい。消えていかなきゃ、汚い。

そういうことを考えてると、未来を描いたSFってのはいいなあ、と思う。書いた時は真実だって思ってたけどうそになっちゃった未来。これからうそになっていくだろう未来。書きながらも、これはないな、と思いながらつくる未来。残酷だ、どうしようもないくらい残酷でうつくしい。べつに未来の話じゃなくてもいい、とにかくそういう残酷なうつくしさっていうのがSFのよさで、ぼくにとっての第一条件かな、と思う。

話が逸れまくった。世界史がめんどくさい。あと七十ページある、しかも次々前やったことは忘れていく。誰か助けてほしい。汚くってもいい、せっかく暗記したものは消えていかないでほしいよ、センター試験まででいいから。

展望

こないだの三者面談。志望校を決定した理由に、雰囲気、と答えたら、もうちょっと将来のことを考えてみたらと、軽く呆れた顔で担任の先生がいった。

雰囲気じゃだめですか、と聞くと、いやだめじゃないけど、さすがになにも考えなさ過ぎじゃないかな、と。母親はびみょうな顔で押し黙っている。大学出たあとどうするかー、とか、自分になにが向いてるかー、とか、考える? って聞かれたので、考えませんね、考えすぎちゃうんで考えないようにしてます、と答えた。先生はまたちょっと笑って、次の話題に移った。

提出物が出てない説教。すなおに謝った。

 

大学受験の天王山と呼ばれる夏休みのスタートをきちんとできるよう、とりあえず勉強場所を変えてみる。ぼくと母の家から父親とその恋人の家族の家へ、一週間ほど。

実際にするしないにかかわらず勉強しようと思えばどうしても家にいなければならず、そうするとだんだん気分が閉塞して堕落なものに惹かれやすくなってしまうので、それを防ぐためにもいちど周囲の環境を大きく変えてみるというのは大切なことだと思ったからだ。あとこっちには漫画やゲームがないので単純に勉強に意識が向きやすいということもある。

 

移動はきのうの夕方だった。参考書、荷物、それから一週間分の文庫本を詰めた荷物はおそろしく重く、ふだんクリアファイルと筆箱と本一冊くらいしか入っていない鞄で通学している身には、それを携えての一時間の電車での移動は厳しい、それだけで体力をつかった。きのうかなり気合を入れたのに二時間くらいしかできなかったのはそういうことだ。と、思いたい。

着いたら、空き部屋を割り当てられた。きのう無理やり片付けたのだという父。なるほど、二段ベッドの二段目がひどい有様だった。参考書は窓際の棚の上、着替えは机の下の鞄に詰めてと、置き場をきめて荷ほどきをする。やったことないけど居候みたいで、ちょっとわくわくする。

 

居心地は上々。母親の飯が食べられないのは残念だけどこっちでもそこそこのものはもらえるし、家の人は受験生ってことでむしろ過度すぎるくらい気を使ってくれるし、あとなんてったってクーラーがある。

クーラー。ぼくと母のふだん住む家にはないので、自分は暑い寒いには強いって思っていたけど、そこにあってその操作が自分に委ねられてるとやっぱりつけてしまうから、案外そうでもないのかもしれない。なんとなくちょっと暑い、を、明らかに涼しい、にしたくなってしまう衝動。クーラーの魔力は恐ろしい、ぼくみたいのがいるから地球温暖化なんてのが起こるんだろう。って思いながらまた設定温度を下げちゃうんだけど。

 

で、勉強。進んでない。

twitterのようすをみていただければわかると思う、めちゃくちゃネットサーフィンしてる。なんでかっていうと机の上に使い放題のPCがあるからだ。これがやばい。ほんとうにやばい。椅子に座るとPCひらいちゃう。しかも部屋超涼しい。エアコンとPC、人間の堕落癖を現出させるゴールデンコンビだ。とりあえずPCから離れようとベッドに寝転がると寝る、確実に寝る。逃げ場がない。やっぱり娯楽の有無はぼくの勉強量と全然関係ないんだなと改めて痛感する。

環境は何も悪くない。ぜんぶぼくが悪い。

そのことに気づくのすら、十七年かかってるのに、自分がどう生きるべきかなんて、なー。

Don't Summer

一昨日。三時間睡眠のいちばんハッキリしない頭で自転車を漕ぎ、終業式の小一時間を爆睡、帰りに友人の家でスマブラして。帰り道を自転車でたどりながら、そういえばそろそろ八月だな、っていうか今日から夏休みだな、って、五時を過ぎてもまだ日の沈んでないのをみて思いだした。

信じられなかった、自分が「 信じられない」なんて心持もなく自然にそれを受けいれられていること。夏休みが来たね、そうだね。それだけで、なんの感慨も、嫌悪もかかえていない自分がふしぎだった。

むぎーわらー、ぼーしぃはー、ってペダル漕ぎながらうたう吉田拓郎の名曲もまるで効力はなくて、けっきょく無感動のまま家に着いてしまった。ぼくが夏に向ける感情は、こんなに淡白だったろうか。違う、はずなんだけど。関係ないけどあの曲が子どもじゃなくて夏休みを失ってしまった大人のためのうたなんだって気づいたのはわりと最近だ。

 

夏はにがて。とくにあと一週間で来る八月。その理由はことばにしづらいけど、まー確実に考えられるのは、暑い、さわがしい、ってとこだろう。街中にエネルギーが満ちていて、それがぼくの脳みそを情報で飽和状態にする。ぼんやりした頭は現実を直視しない、未来に夢をみない、ただ過去の八月においてきた後悔のかずかずを漠然と引っぱりだすだけ。そのせいで内省的にもなれない。終始感情がざわざわして、ただ家にいるだけでも疲れてくる。しかたなく外に出れば、慣れない滑稽なダンスをひたすら踊らされているみたいな気恥ずかしさと徒労感がずっと続く。

でもだからって嫌いになるにはやっぱりあまりに魅力的すぎる。にがてだなんて思いたくない、そういうふうに思わせてしまううつくしさというのが夏にはどうしてもある。突きぬけるように爽快で、わくわくして、しらない駅の改札を抜けたみたいな気分がずーっと続く。こんな幸福を自分が享受しちゃっていいのかな、って浮足立ってしまうくらい( そこもまた苦手なんだけど)。

 

とにかくぼくが夏に、八月に向ける感情はただものじゃなく複雑だった。はじまればわくわくとうんざりとがないまぜになって襲ってきて、終わればせいせいした気もちの内側にそれを惜しむこころが潜んでいた。八月より好きな月はある、八月より嫌いな月もあるけど、好きと嫌いとそのどっちにも属さない感情までひっくるめた総量をくらべれば、ぼくにとって八月以上に思い入れのある月なんてない。どうがんばっても飼い慣らせない八月は、たしかに怪物だった。

それがいま、どうしてか一切の存在感もなく、あと一週間のところまで近づいてきている。ぼくの変化なのか、ぼくをとりまく環境の変化なのか、わからないけれど、もしそれが大学受験なんてくだらないものがもたらす不安のせいなら、ぼくはまた自分のことをきらいになってしまうなあ。

技法

昨晩えらく陰鬱で混乱した記事を書いてしまったので今日は混乱しながらでも比較的ゆかいなことをかいて記事にしようと思う。

ひどく弱っちいぼくの自意識でものごとを左右させるのはひどくむつかしく、逆に自意識のほうが左右されてしまうのが常だ。自分で書くブログの記事しかり。

 

きのうみたいにひどく暗い気もちになればそりゃ、「 自殺」の二文字が頭に浮かばないでもないんだけど。どうせ、まず死んだりしない。

理由は、死ぬとどんなかんじとか、死んだあとどうなるとか、そもそもどうやって死ぬとか、まるでわかってないからだ。そんなあやふやなものに縋るくらいなら自意識の問題はおろか生活苦とか病苦とかに耐えるほうがマシかなと、いまは思えてる。死ぬのはたぶん、そこそこ損だ。

ようは損得計算ができてる間はぼくは自殺とかしないんだろう。強烈な感情のまえに正気を失ってない間は。たぶんそういうこともない、死にたいとかこんな自分やだとか、そんなに強く思えないし。

自己嫌悪まき散らしながらそれでも死なないし改善する気もないのはやっぱりそこまでいまの自分が嫌いじゃないから。百点満点で好きが二の嫌いが四くらいの感じ。端的に言ってどーでもいいんだろう、って、書きおわってから気づいたけどこれ完全にうそだ。好き九十六の嫌い百とかだ、たぶん。自分のことだけはどーでもいいと思えないのがぼくか。いやだなあ、いやだなあ、あ、また暗くなってるな。話題変えよう。

 

勉強がいやすぎて暇つぶしに気になった言葉を適当に調べまくっていたら、ぼくのいちばん好きな詩人、田村隆一がぼくの生まれた年に死んでいることが判明した。

一九九八年って、どんな年だったんだろう。母のおなかのなかで、生後一二ヶ月のまだ開かない眼で、ぼくがなにか感じていたか。それをひとかけも覚えていない違和感は、薄気味わるいけど、どこか安心するものだ。ぼくの生きた十八年間のあいだにひとつでもはっきりした断絶があるなら、やっぱりぼくはどこかでちゃんと変わっているってことなんだろう。それがいいかわるいかは、考えないでおく。今はたぶんそうするべきなんだ。

 

田村隆一の詩は、読んでいて表層にあらわれるうつくしさと根底に住まう苛烈さのバランスが、ぼくのあこがれるものにかなり近いと思う。稲垣足穂梶井基次郎とはまた、違ったかたちで。生まれかわるなら、「 言葉のない世界」のなかの一節がいい。

そういえば田村隆一、かなしいものをうたうときの不思議なポップさは、people in the boxの歌詞にも近いものが見えると思う。「 ニムロッド」に「 立棺」の影をみるのは邪推か。うん、邪推だな。

 

PITBといえば。四日前通販で買ったCalmly SocietyとLost Tapesが、現在おそらく運ばれている最中だ。早く届けばいい、というかなんで一日二日で届かないんだ、といらいらしてしまうのはAmazonのスピードに慣れすぎたからか。

よくない傾向だろうな。そういうの。最近は本屋やCD屋でも「 これAmazonにぜったいもっと安い中古の、あるよな……」と思って買うのやめてしまったり。生活の良しあしに直結してこない金なんだから、衝動的に使ってしまっていいはずなんだけど。そうしたほうがすっきりするし。お金を有効に使おうとする姿勢なんてのはどうせ自分で稼ぎはじめてからしか確立されないものなんだろーし。

 

最近また小説を書いてる。文芸部で出すやつだからネットのほうに公開するかどうかは微妙だけど。テーマは部員全員共通で、「 神」。あいてて。あいててて。

物語要素はまえのやつよりちょっと強くした。いちおう、向上心だ。

ブログにしろ小説にしろ、文章を書いていると数学の問題を解いているときと似たような感覚に陥る。考えを整理しようととにかく書きつらねてみるけどむしろそのことによって問題は前よりむしろ複雑になっていて、頭の混乱度合はさらに増したように思われるんだ。しかも数学の問題ならいちおう答えっていうのがあるのに、ぼくの考える問題には模範解答どころかどういう答えにたどり着くべきなのかも、どういうものが答えと呼べるのかも示されていないからとにかく過酷だ。

ただ、数学の問題だと一個プラスとマイナス間違えるだけでそのあとぜんぶオジャンだけど、文章を書くときは間違いや破綻はむしろ味につながったりする。だからまー、すぐ慌ててポカミスをやらかすぼくは文章を書くほうが好きなのかなと思う。センター数学でも間違いを「 味」として加点してほしい。

あー、でもこーいうの実際に莫大な量の文章書いてそれでメシ食ってるひとが言わないと説得力なくてダサいな……。もっと書かなくちゃな。ぼくが大文豪になったときのために上のハズい文言は残しとくべきだと、思いながら句点をうつのである。

くだ

中学の頃からの友達とひさびさに会って、出かけ先でいろいろ話した。

あっちには夢があって、そのためにいろんな苦労をして、学校もやめたりした。苦手な長期的な計画とか、同年代のまわりにいない孤独とも、がんばって戦いながらちょっとずつ自分の場所を作ってるらしい。

そういうのを聞いてるとどうしようもなくみじめになってくる。ぼくには夢がない。目標もない。そこまでなにかを求める気もちがない。たいした苦労もしてないし友人とか知り合いもいて、でも彼らが用意してくれるすてきな場所のかずかずのどれにもぼくは身を預けられない、苦労をしてないって負い目とか、ここにいちゃだめだって焦燥とか、理由はいろいろ。

計画性はないけど地に足つけてしっかり歩いてる友人の熱っぽい話に、計画たてる余地もないくらい宙ぶらりんのぼくがあいまいな相槌をうつ。どうすればこいつみたいになれたかとずっと考えていた。答えは出なかった。

友人は用事があるからってちょっと急いで帰った。ぼくも勉強しなきゃいけないって、思ってるはずなんだけど、本屋に寄り道した。べつに何も買わなかった。そんなに読みたい本もなかった。ミスタードーナツがちょっと遠いので、代わりにコンビニでドーナツ買って食べた。そんなに違いもないように思った。

 

むかしからぼくは怠けっぽい。だいたい途中でやめる。ピアノ。水泳。書道。演劇。習い事は長く続かない。なにかしたいってたぶんあんまり思わない。なんかのきっかけで始めた、その惰性で続けてその力が弱まったら終り。なにか技能を身につけたいとかなにか知りたいとかもたぶんあんまり思ってない。自分がどんな人間でもかまわない。恥ずかしいのは嫌だからみすぼらしくないように強がることだけはする。最低限。他人にどう見られるか気にするのも、他人に嫌われたりしたらめんどうだからって気もしてる。

それに、これが好き、これが得意って誇れるものもない。読書、アニメ、ゲーム、あげようと思ったらあげられるけど。暇つぶしだ、全部。ほかのことでもかまわなかった。ただ比較的そういう趣味のほうが体力使わずに済んで楽だからって選んだ。不誠実。賞賛すべきいろんな芸術作品を片端からただの時間つぶしに消費する。楽しかろうがつまらなかろうがそんなのはきっと底の底ではどうでもいい。ツイッターに書き散らかす感想なんてのも、暇つぶしの延長だ。すてきな作品に触れてなにか感じた、ふり。だれかの考えに共感した、ふり。作品に向ける感情が足りてないから深く知ろうともしないしなんか網羅しようともしない。金かかるし、金ないと面倒だし。

なにか欲しいって思うことも少なかったと思う。例えばそれこそ居場所とか。欲しいなって思うことはあるんだけど必要とされる努力の量を考えるとべつにいいかって思う。そんなに欲しくもないし。そう思って途中でやめる。何になりたいとかもおなじだ。

怠惰の原因はたぶん根本的な感情の欠如。なにかを好きとか嫌いとかあんまり思えない。好きなものを引き寄せようともしないし嫌いなものを遠ざけようともしない。だから苦労が要らない。大学は行けるとこでいいから、勉強は適当でいい。人間関係は最低限でいいから、目立たなくていい。人生は、人生は、息できてたらいいから。その場合どうしたらいいんだろう。っていうか、息も、どうだろう。

でもなにもかもがぼくに無反応で通りすぎていくのだけはどうしても耐えられない。だからこんな散らかった文章をネット上に公開して「 共感」をもとめたりして寂しさを紛らわす。でもそれだって現実世界で仲間を作って話を聞いてもらうっていうようなことにくらべたらひどく小さなことだ、寂しさを紛らわせたいって気もちすら、ぼくには。

怠惰だ。なんだそれ。なにに感情を向けもしないでただ飯食って寝て。なんのために生きてるのかなんて考えたこともない、めんどくさいし。死ぬのも同じ。

きっと生きてるとも死んでるとも感じれてない。生きがいとかたぶんない。きっかけがあって生まれて、惰性で生きつづけて、それが弱まったらたぶん生きるのおわり。習い事とおんなじだ。そんなの人間の生きかたじゃない、機械かなんかみたいだ。人間性が足りてない。何にもする気ない。どうなる気もない、極端はたいへんそうだし平凡はめんどくさい。でもいっちょまえにそーいう空虚を嘆くことだけはする。風が通ったらひゅうひゅう鳴くパイプかなんかに似てる。それで、それでなにがしたい。わからない。こんな文章書く意味も。でも誰に読まれないのはすこしだけ寂しい、気がする。

気、だけが。

逃げろ

夜中の自己嫌悪の膨張がいよいよ耐えがたくなって、勉強しようって倫理の教科書を開くけど、机に向かうのがつらいので、枕を持ってきて床にひっくりかえって読む。円い蛍光灯の光に透かされた指のさきの爪が思ったより伸びている。こないだ切ったばっかりなのにって、つく溜息が前より長くなっている気がした。

 

受験が近づくごとに時間の流れは痛烈になっていく。こうやって記事を書きちらかしている間にも一秒一秒受験対策の時間が削れていること、思うたびにどうしようもなく悲しい。これまでの勉強量があまりに少ないので正直食事の暇まで惜しむべきなんだけど、ぼくの怠惰はどうせ惜しんで作った時間をさらに惜しいことにつかうに決まっているんだ。

なので、悠々と暮らしてる。きわめて。茫漠とした将来の不安を抱えてるからそうせざるをえない。いや、別に不安は茫漠としてないか。そんなの言い逃れにもなってない。不安の種だけははっきりしてるんだ。勉強時間と、怠け癖。

 

受験勉強のことを考えるともうひとつつらいことがある。本を読む、音楽を聴く、散歩する、みたいな精神にとって大切、っぽい行為の価値がおしなべて、勉強の前にゼロに等しくなること。

勉強して心身の健康が損なわれたら本番で実力出せなくて元も子もないから、とか言い訳を用意してそういう行為につかう時間をつくってみるけど、受験への不安でそれだって手につかなくて結局なにもしない時間が増えて精神の衛生状態はどんどん悪化の一途をたどってる。

だいいち勉強以外のことをやめたとして、健康が損なわれるほどはたして自分は勉強できるのかという話。疑わしい。はなはだ疑わしい。かといって勉強しなければ健康が損なわれないかっていうとそうでもない。どうせ不安で押しつぶされるに決まってる。

たぶん、結局勉強に打ちこむのがいちばん精神にはいいんだろう。でも、それがわかったからってじゃあ勉強だと気合が入るなら、今頃こんなに落ちぶれてはなかったと思う。学力に限らず、いろんなこと。芸術とか、人格とか、人間関係とか。

 

話は飛ぶけど倫理の教科書でいま西洋哲学の単元を予習してる。どうせ学校の授業じゃやらないしやってたって聞かないから仕方なく。英語からの逃避ってのもある。

で、読んでるとハイデッガーとかウィトゲンシュタインとか見たことある名まえ(かっこいい)と顔(こわい)がたくさん出てくる、んだけど興味がぜんぜん湧かない。哲学は何度かかじろうとしてきた分野だけどそのたびに挫折してる。

なんか、苦手というか、あんまりいまのぼくの精神が必要としていないのかもしれない。経験とか、実存とか、知らんし。そしてぼくにとって知らないことというのはこれまで知らなくても問題のなかったことであり、そのうちのほとんどはこれからも知らなくても問題のないことである。というわけでぼくが哲学について何かを知る必要はない。証明終了、あと思考停止。

というかそういうのって究極的には自分で考えていかなくちゃいけないことで、どの哲学者の思想も出発点は自分のための思索なんだろうし、他人のためのものである限りはそれをぼくが鵜呑みにするわけにはいかず、鵜呑みにできない以上はそこにあるのは知らないおっさんおばはんの勉強ノートだ。そんで複数のおっさんおばはんの勉強ノートを要約したのがぼくが読んでる倫理の教科書である。なにそれ?

いやまーどれもえらいおっさんおばはんだしその話を理解して自分なりの思索につなげていくのはめちゃくちゃ大切な行為なんだろーけど。でも鵜呑みにできない話を理解するのは正直かなりたるい。そのあと考えるのはもっとたるい。

あ、結局やる気ないだけか。

まー全国高校生マークシートぬりぬり選手権、またの名をセンター試験、に向けたうっすい勉強すらも耐えがたいガキの学問に対する姿勢なんてのはこんなもんだ、とか、あー、また言い訳が出てる。直さなきゃいけないんだけど。

まわる

中古で買った文庫本に栞がはさまっていた。片面には出版社のロゴマーク、その裏には名まえもしらない「 高名な学者」の名言が印刷された、ぺらぺらなやつ。じゃまだったので片手でぽいと床に投げたら、栞はくるくる回転しながら落ちた、その細長い長方形を縦に二等分する線を中心に、くるくる。それがおもしろくってぼくは栞をひろっては投げ、拾っては投げした。意外と、きれいに回転させるのにはこつが要った。有体に言えば気張ったらいけないということで、ぼくが最初にやったみたいにできるだけ無造作に、ぽい、というかんじで投げたらいい。それに気づいてうまく投げられるようになるまでに、七、八回くらいは要った。今はもう、ごみ箱に棄ててある。

 

思えばむかしっから回るものがすきだ。独楽とか、扇風機とか、床屋の看板とか、メリーゴーラウンドとか、たまに見かける一周十二分の時計とか、気づいたらじーっと見ている。フィギュアスケートも選手とか技術とかはよくわかんないけどやってたら観る。

 

ペンをまわすくせもある、といっても、大会とかのあるいわゆる「 ペン回し」じゃなくて、ペンの尻を机に置いて先を指に突き立てて、もう片方の指で力を加えてドリルみたいにまわす、っていう不格好なものだ。ぐるぐる、っていうよりは、ぎゅるるる、ってかんじの回転。ペンの印字とか輪郭がぼやけるのが見ていて楽しい。だいたい最後は机に倒れ込むので、ばた、という音がして、テスト中だと申し訳ないことになる。やっちゃうけど。

 

バレー部のクラスメイトが人差し指の上でボールを回してるのをみて、もっかいやって、って言って怪しまれたこともある。回っている最中よりも力をうしなってだんだん回転速度が落ちていくさまが、とても愛らしい。映画「 少林サッカー」でもラストシーンの、カンフー使いの女の子が指のうえでボールにすごい回転をかけていくシーンがすきだ。あと旋風脚のハゲ。

ちなみにクラスメイトは怪しみながらも計三回やってくれた。いいやつだった。

 

イヤフォンをカウボーイみたいにぶんぶん振り回して断線させてしまった経験もある。なんにしても先におもりのついたヒモというのは回すためにあるんじゃないかと思う。忍者になったら鎖鎌を使いたい。単純に鎖分銅でもいいけどやっぱり鎌ほしい。

でもいざって時に出してきて刀とか槍とかもってる周りの忍びに「 ええ……鎖鎌って……」みたいな反応されたら恥ずかしい。だって絶対だれも使ってない、鎖鎌。鎖鎌好きのぼくとしても考えたひとの正気は疑ってる。そんでそれがただの思いつきに終わらずにいまでも存在が知られているというのも不思議だ。鎖分銅の持ち手に刃物をつける発想はまだわかるにしてもそれが刀でも槍でもなく鎌ってのがまるで不可解だ。なんでわざわざマイナーとマイナーを掛けあわせたのか。もしかしたら家に刃物がそれしかなかったのかな。農民発のトレンドなのかも。忍者ってふだん農民が多いって言うし。

 

あとこないだ京都市立水族館に行ったときも、鰯のたくさんいて竜巻みたいにぐるぐる回るのに一時間くらい見入ってしまっていた。なんか、桜と鰯、とかいう特別展示で、あたりに桜を模した香料とあからさまなヒーリングミュージックがまき散らされていてすこし不快だったことを覚えている。

鰯の螺旋の軌道、それそのものより、ときどき通るエイとか、撒かれる餌とかにぶわっとかたちを崩すのにぼくは感動した。まるで機械に命令されているみたいにぐるぐるぐるぐる飽きもせずに回転しつづけるその一匹一匹が、やっぱり自己を持ったひとつのいきものだってことにひどく安心していた。五十分くらい、その水槽を見つづけてたと思う。途中から足が疲れて体重を預けっぱなしにしていたせいで、持っていた傘の軸が歪んでしまった。

 

そういえば傘も、誰もいないときを見はからってくるくる回すくせがある。雨滴がわーっと飛びちるのをみるのが楽しい。

 

プラネタリウムでもやっぱり星が回転するところがすきだ。「 ではもう少し先、今晩の夜空を眺めてみましょう」みたいなアナウンスが入って、時間が一気に進むところ。一個だけ動かない、回転の眼の北極星に視線をかためて、星がぎゅうっと動くのを、ぼんやりととらえる。

独楽の軸、扇風機のモーター、はじめ、回転の中心というのはなんでもすてきだけど、北極星ポラリスはまた格別だ。遠心力で端へ端へ吹きとばされてしまった、夢とか魔法とかそんなたぐいのものが、あそこには残っているというかんじがする。あー、プラネタリウム行きたいな。近所だとどこでやってるんだろ。