言いわけ

また小説を書いた。掌編にも満たないくらいの量だけど、時間はけっこう喰ったはず。思いついたふたつのフレーズの間を埋めて文章にする、って手法をつかってみた。それが時間喰った原因かも。でも、浮かんできたことばからイメージを膨らませてそれを入れこんで、ってプロセスはわりと性に合ってるように思う。

傍からみてどうかはわからないけど自分としては前よりよく書けたなと思えるし、積極的に自己満足として創作をやろうとしているぼくにとってそれはたいへん喜ばしいことだ。なにより楽しく書けたのがとてもよかったと思う。「 潜水」を書いてる時分はずっと「 日本語殺しておれも死ぬ」とか考えていたし。たぶん物語と、文章にいれこむこと、その順番を先に決めてから文章を書いたのが疲弊の原因だった。

書きたいことと書くべきことがすり替わる。今回はそれがなかった。文章を書くのと何を書くのか考えるのが、連動するタイミングがわりとあった。

全体像を想像して組み上げていくよりも、つねに次の一行をさがしつづけるって心持で文章を書いて、いつのまにかそれが物語になっていたりしたならそれはとても幸福なことだと思う。限界まで作為をけずって純粋に感覚を試していけるし、なんらかの結論をめざす思索の過程がきちんとのこる。また作品に真剣味が生まれる。押し殺そうとしてそれでも消えなかったような、強力で切実な作為だけがその場にとどまるからだ。

 

とか。量も質もたいしたもん書いてない人間が創作論モドキをぶちまける恥ずかしさは文芸部で重々承知なのであんまり長いこと、創作のあるべき姿、だとか書き散らかすのはやめる。そういう話をしようと思ってたわけではなかった。

ぼくはなんで小説を書きはじめたのか。書き終わってまた考える。べつに書きたいことがあるわけではないし特段だれかに評価されたいわけでもない。小説が書ける自分になりたいからだ。できたものに自分で満足したいから。

でも自分で自分を認めたいって欲求は前々からあったのに、どうして今それが立ちあがってきたのだろう。って考えるとやっぱり受験だ。点数のつく勉強以外に自分に価値があるって実感がほしかった。まったく大学受験なんてものに簡単に精神を左右されすぎだ。ほんとうに自分がない。人間性が欠けてる。

って、書いても前より落ち込んでない。なら、たぶん小説書いてる意味はそこそこあるのだ。今後も鬱屈としてきたら小説書くようにしよう。しんどくなったときの現実逃避。そんな認識でいいと思う。ぼくはいつも創作行為を畏怖しすぎる傾向があるから。書きたくて書く、それ以上の意味はなくていいんだ。創作は創作。たかが創作。