雨に唄えれば

雨は昼過ぎに数十分だけ、どしゃっ、と降った。それが止んだのを見はからってぼくはスピーカーの電源を切って、部屋の換気をする。音楽を流すときは近所迷惑にならないように部屋を密閉しているので、ながいこと聴きつづけていると部屋が蒸してくるのだ。開け放った窓から、涼しい風に乗っかって大雨が降ったあとのあの甘いにおいが流れ込んでくる。なんのにおいなんだろう、と考える。樹液とか花の蜜とかが、雨水に溶けて蒸発したんだと、てきとーな仮説を立てた。こんなことをグーグルで検索するのはちょっと、野暮だろう。自然にまつわる謎はほかの謎とくらべてもひときわきれいだから、できるだけ多くそのままにしておきたいと思う。

雨のことはそんなに好きじゃないけど、雨の日、家にいるのはすきだ。とくに雨の音がいい。家のすぐそばの木の葉っぱに雨滴が当たってぷつぷついっているのを聴いていると、きのう、小説を書いて出た疲労がちょっとずつ癒されていくかんじがした。

小説を書いたのは、中学の時いきなり超スケールのバトルラノベ*1に挑戦して数日で砕けちったとき以来だった。疲れた。心身ともに憔悴しきってしまった。しかもできたものの完成度はそれに釣り合わなかった。やっぱり創作にはあんまり向いてないんだなと再確認できた、その一点を見ればいちおう、意味のある行為ではあったけど。もう一度やるかって聞かれると。うーん、やらないよな。疲れるのはきらいだ。

まー、もちろん楽しくなかったと言えばうそになる、描写を重ねて重ねてガチャガチャ組みかえて、という作業がおもしろくなかったわけじゃない。でもやっぱりどれだけ薄いもの、ちいさなものでも、物語をつくるのはつらい。ひどくつらい。自分の体の肉を削り取って自分の手で成形しているような感覚だった。ぼくは小説がすきで、文章を書くのもけっこう楽しく感じるから、ついつい小説を書きたがってしまうけど、苦手な物語づくりが必要になってしまうからやっぱり、体力的にも精神的にも控えた方がいいと思う。物語をつくる必要なく文章を書きなぐれるブログが、やっぱりぼくには合っている。

あと書いてる最中、気が散るからって音楽かけないで無音の部屋に籠っていたのもよくなかった気がする。静けさが人のこころを傷つけるってはじめて知った。毎日ホームルームを騒がしくするのに必死なクラスメイトの気もちがすこし、分かった気がした。沈黙は苛烈だ、そのなかにいる人間の思考を内側へ向ける、その力があんまり強すぎる。

かといって、ざわざわとした、無規則な騒がしさは思考力を奪って、それもまた精神にはよくないから、ある程度の騒がしさと秩序のある音楽にぼくは精神の安定をもとめるんだろう。でも音楽を聴いていたって、製作者の意図を邪推してしまったりなんらかの感情を喚起させられたりしてしまうから、精神の安定にはやっぱり至らなかったりする。

だからまー、もの思いにふけるには、静かすぎず、規則的で、自然のものだから邪推する意図もない、雨音がちょうどいいんだと思う。ちょうどいい量の思考が削がれて適度に自分のことについて考えることができて、疲弊したこころが修繕されていく。あと何回、雨の日を過ごしたら、また小説が書けるようになるんだろう。それはちょっとだけ楽しみで、けっこう怖い想像だった。

*1:ちょっとだけワードに設定がのこっていた。禁酒法時代の舞台設定で元殺し屋のおじさんと人造人間の女の子が何でも屋やる話で、あー、なるほどね、オーケーオーケー、はいはいはい。というかんじだった。

ここ二三日のきもちわるいことリスト

こないだ、前の記事で描いたようにクローゼットを整理してから、部屋のにおいがすこしだけ変わった、というか、軽減された。ずいぶん過ごしやすくなったしこれで勉強もいくらか進むようになるかもしれない、とうれしく思うけど、それでいて、においが変わって快適になったこの部屋は、なんだか自分のいていいところではないという気がしてしまう。ぼくみたいなのがこんなに気持ちのいい空間に暮して、ほんとうにいいんだろうか。

 

受験に向けて、やっとちょっとずつ勉強をはじめた。まだまだふつうの受験生に比べたらずっとずっと少ない量だけど、毎日どれだけやるかを決めてすこしずつこなしていっている。まあいきなりうまくいくわけないし、けっこうな頻度でその少ない量すらこなせないまま寝てしまうことがあるけど、それでもここ数日でずいぶん安定してきたし、これまで一切勉強してこなかったことを考えればいちおう、進歩といえる。

ただ、毎晩机に向かって参考書を開くたびに、らしくないなと、自分が自分でなくなってしまったような不安感に陥って、ぼくのアイデンティティって勉強をしないことにあったのかと考えるとすこしばかり消えてしまいたくなって、そんでも参考書は閉じないで、この身体は数十分間、じっと勉強に耐えている、それがまた気持ち悪い。

このまま地道にやっていけばうまくいくかもと考えるたび、ぼくなんかの人生がほんとうにうまくいってしまっていいのかって疑わしくなる。だめなわけはないよな、とか自分を鼓舞してみる、それが何よりもらしくない。ぼくってこんな人間だったか。思い返そうとしてみるけどそもそも自分がどういう人間かわかったためしなんて一度もないから結論は出ない。そうこうしてると気づけば勉強の手が止まって眼球は参考書の空白の部分をぼんやりとながめていて、ああ、ぼくらしいな、と少し安心してしまう。

 

なくしてたと思ったお気に入りのイヤフォンが見つかって、LINEをブロックされた後輩とも仲直りができた、母親に怒られることも減って、席替えで窓際いちばんうしろの席を引き当てた。行きに通りがかったときはなにも植わってなかった田んぼに、帰りに通りがかったときには半分くらい稲の苗が植えてあってなんだか感動する。曇りの日に歩いて帰ったら、重苦しい青色が降る街は水のなかみたいできれいだと気づく。浸かった浴槽のお湯さえなんだかいつもより柔らかい気がして、夜更かしして勉強してたら窓から気持ちのいい風が吹いてきて報われたと思っている。

ここ数日で生活がちょっとだけど充実して、すてきなものを目にすることが連続している。空虚さばっかりが場所を取っていた精神も多少よくなって、物事もやや、前に進んで。でもなんだか、自分みたいなのがこんなに楽に暮らしてしまっていいのかなと、訝しむ気持ちがぬぐえずにいる。ほんのちょっとの、たった二日三日の話なのに。大げさだ、たいしたことない、って割りきれるようになれたらどんだけいいだろうか。きょうのぶんの勉強がまだ、終ってない。

精神的整頓

午前中いっぱいをつかって部屋のクローゼットを整理した。理由はお察しの通り受験勉強からの逃避だ。勉強しなきゃと思うと部屋を片づけたくなる、という学校でよく聞くあるあるに、これまで勉強しなきゃとか微塵も思ってこなかったぼくは、いまやっと同意した。実際に自分の体も動いて部屋もみるみるきれいになって成果がはっきりとわかるし、かといって勉強ほど嫌でもないし、なるほど、部屋の片づけはたしかに勉強からの逃避にはうってつけの行為だ。これからは勉強がいやになったら部屋を片づけることにする。受験が終わるころには、ここの部屋はホテルのようにきれいになっていることだろう。そしたら大学には落ちているけど。自室のうつくしさと進学先、どちらを優先するべきか。むつかしい問題なので考えるのに一年ほどかかりそうだ。

 

クローゼットはまあ当然のごとくひどい有様だった。小学校のときから、母親の目を逃れるためとか自分でその存在を忘れるために突っ込んできたさまざまがぐちゃぐちゃに蓄積して、すさまじく雑然としている。おまけに、くさい。カビとホコリの黄金タッグが絶妙なコンビネーションでぼくの嗅覚を破壊せんと挑みかかってきた。むせた。いそいで窓を開けた。

そんでも意を決して片づけを決行する。とにかく眼についたものを引きずり出して必要なものかどうか判断していくと九割九分九厘は必要じゃないものだった。押し付けられた文芸部の部誌。むかし気に入っていた服や中学の時の通学鞄がカビを生やして出てくる。失くしたと思ってたデジタルカメラの充電ケーブル。BUMP OF CHICKENの歌詞カード。ビー玉が五個、おはじきが十二個、オセロの駒が一枚だけ。いつのかわからないお茶のペットボトルは振るとちゃぷちゃぷいったので、目を背けて息を止めながら中身を洗面所にあけ、捨てた。むかし捨てそこねたもの、処理しあぐねたもの、いつか必要になると思ったもの。そんないろいろと対面してはゴミ箱へ移していく。むかしの自分と向き合っているような、このクローゼットには滞った時間が堆積しているような錯覚に陥った。体から遠ざけながらゴミ箱へ運んだわら半紙の、カビが時間を表象している。

 

途中、父の著書がかたまりでごそっと出てきて、ちょっとどきっとする。父親は本を出すたびぼくに一冊渡して、読んでおけ、という。でもだいたい経済学の小難しい話や哲学のうさんくさい話ばっかりだから読まないし、とりあえず部屋にうっちゃっておく。それを一度母親に見つかって、貰うなそんなもん、と激昂されたことがあり、それ以来ビビってクローゼットに押し込んであったのだった。

どうする、と母親に聞いてみる。『 なんでも鑑定団』を見ながら半笑いで、ああ売っちゃえ売っちゃえ、と答えた。両親の関係も時間の経過のおかげで、いくらかよくなっているのかもしれない。

 

燃えるごみは部屋のゴミ箱へ、ペットボトルは洗って分別、不燃ごみは勝手口の外、衣類はとりあえず洗濯カゴにと、二時間ほど作業を続けると、カビとホコリの臭いはほとんどなくなって、掃除機と雑巾をつかって埃や汚れを取り除けば、なにか空いたスペースにものを入れてもいいくらいにはきれいになった。これだけ整理されてりゃ引越しのとき楽だと、思ってから気づいたけど、この家この部屋に家族と住むのもあと十か月もないんだった。やった形跡のまるでない進研ゼミのテキストがゴソッと出てくる、小学六年生八月号から中学一年生五月号まで。このころのぼくはきっと、この部屋に自分は永遠に住み続けるから、母親がこの部屋に勝手に入ることなんかないはずだから、手つかずのテキストをここに隠したんだ。いつからぼくは一人暮らしを現実的に考えられるようになったんだろう? 思い出そうとしながらぼくは、すでに自炊の心配をしていた。その前に大学に受からなきゃいけないんだって、いつになったら理解できるんだろうかな。きのうの模試の問題冊子をてきとーに見直し、進研ゼミのテキストと一緒に縛って、古紙回収に出す。

田中慎弥『 切れた鎖』を読んだ

まえに読んだ『 共喰い』の長い感想をこっちで描こうと思って結局断念してしまったので、リベンジ的な意味も込めまして、短編ごとにぼつぼつと。けっこうガッツリネタバレをするけど、田中慎弥の小説に意外性を求めるひとはおるまいと思っている。

 

不意の償い

恋人と初めてセックスをしていた丁度その時に、火災で両親を喪った男。その恋人と結婚して彼女の妊娠を知り、性行為へのコンプレックスや嫌悪を募らせ、自分が子供を持ち親になることに不安を抱いて、次第に狂気を帯びはじめる。

おもしろいのはやっぱりその「 狂気を帯びはじめる」描写。それが始まっても男はいつも通りに仕事をして妻と会話して生活していくんだけど、でもその様子が描かれるモノローグは加速度的におかしくなっていく。街には醜悪な牛や羊が、男の顔をした犬に残虐な儀式を行っており、警官は男に「 あなたの妻が産む子供は本当にあなたの子供か」と問いかけ、至る所で男の両親を殺した火事が起こっていて …… グロテスクな幻覚を描きだすモノローグはドラッグ小説もかくやの完成度で(まあドラッグ小説よくしらないけど)、著者の腕前がうかがえる。たぶん田中慎弥、文章がうまいというよりかは、文章に書くものごとを適切に引っ張ってくるのがうまいんだろう。

物語については、主人公の男の狂いっぷりはトラウマに釣り合わなくって「 そこまで思いつめなくても」と思ってしまうくらいであるし、セクシュアルな部分もいまいち書き切れていないようであんまり整ってはない。ただラストシーン、男が出産間近の妻を自動車で病院へ連れていくシーンで、そこまでどんどん悪化していった男の狂気が突然ふっと消え、妻に自然に感謝の気持ちを抱き、なんだか爽やかなオチがついて終わってしまうところが、作者の女性に対する劣等感、男性的部分に対する嫌悪のようなものがうかがえておもしろい。これに限らずどうも田中慎弥の描く男性は弱くてふらふらしていて、女性は強くて揺るぎない。この極端さがいかにも薄気味わるくって、ぼくは好きだ。

 

主人公はタイトルまんま、人間のような自我意識を生まれもってしまった、カブトムシの蛹。彼は土のなかで見る他のカブトムシたちの性交渉に死体として知っている母と見たことのない父の影を重ね、それを恐れる。いつまでたっても成虫になれないまあま、土のなかで角ばかりがどんどん育って、ついには一本の樹となってしまう。

かなりおもしろい。たった二十ページだけどすごい存在感だ。こんなのも書けるんだこのひと、と、ついついびっくりしてしまう。

この小説のテーマはなんだろーかと、しばらくうんうん唸ってたんだけど、文庫本の裏表紙に「 社会化される自己への懐疑」というとてもしっくりくる表現を見つけたんでそれをそのまま持ってくることにした。

たぶん主人公の蛹(なんかすごいことばの並びだな)が地中で見つめつづける性交渉がそのまま「 社会化」、森という社会の運営に子をなすことで貢献すること、を意味しているんだろう。そして蛹はそれを怖がり、自分はあんなことはしたくないと、社会の一部として動くことをきらう。そして成虫にはならないまま土の中にいることを選択するけれど、そのせいで(と書いてあった)角はぐんぐん伸びて、ついには一本の樹という、社会の一部分として森に取り込まれてしまう。そのとき蛹が夢見るのは、この角が折れ、雄としても雌としても認められず、哀れまれ、疎外されてもいいから土の上へ出ることだ。

カブトムシとそのほかの虫がつくる森という一つの社会、そのなかでただひとり自我意識をもってそのしくみに疑いを抱いた者すら、むしろそのために社会に組み込まれて身動きが取れなくなってしまう。人間は社会からのがれること、自己の社会化をまぬがれることなどできないのだと、なんかそういう感じのまとめ方でどうかなー。寓喩小説って慣れてないからどうにも。

 

切れた鎖

没落してしまったかつての名家・桜井。一人娘の梅代は、娘の美佐子と孫娘の美佐絵の三人で古い家に暮らしている。ある晩美佐子がいつものように男のもとへでかけたきり戻らなくなる。梅代はそれをきっかけに、行方知れずの夫のこと、彼が走った隣地の教会との確執を回想し、美佐絵は自分でも自覚していないような、母に対する憎悪を垣間見せる。

古い。あらすじまとめながら、これほんとに2008年の作品か、といぶかしんでしまうくらいの昭和テイストだ。崩壊する「 母」、旧家の抑圧。逆に新鮮に感じるくらい古いテーマ取りで、もうわざわざ言うべきこともないというか、あんまりストーリーについて言葉を並べたてるのも野暮な感じのある小説だ。平坦で盛り上がりのないストーリーのわりには展開を急きすぎた感じがあるって、文句くらいはつけられるけど。

ただ書くべきだと思ったのは描写について。梅代がながめるかつて桜井の家がつくったコンクリートの地平は、もうすでに繁栄もどこかにいって、もっとも華やかなものが新しいファミリーレストラン、みたいな凡庸な海辺の地方都市なのだが、これがたいへんうつくしくうつくしく描写されている。梅代の回想をうながす風景もいちいちきれいに描き出されていて、かつて夫からプロポーズを受けた棄てられたバスのなかをのぞきこむシーンなどとくに耽美だ。

行き詰まった街、むかしの思い出がおかれたままの場所、そういう停滞した時間が横たわる情景は、梅代の精神を追いつめていくものなのに、どうしてか美しく描写されている。そこで思い出すのは時間=川が流れ続ける街をこれでもかと汚らしく凄惨に描いた『 共喰い』の描写。止まったままの時間はうつくしく、流れていく時間は残酷に。そういうふうに関連づけて、あれはこの『 切れた鎖』の延長線上にあるものだったのかな、と考えてみるとおもしろい。

アナーキー・イン・ザ・1K

勉強がやだ。でも受験滑りたくない。いまぼくのこころの地平ではその二つの気持ちが完全に拮抗・激突している。その激戦の余波が、ますます栄えていく幼稚性の都市とゆるやかな発展をみせていた文学性の集落に壊滅的な被害をもたらす。なにもない荒野が拡がってゆく。twitterアカウント@Hashikawa119の全ツイートのうち勉強したくない旨のツイートが占める割合はどんどん増えていく。そのうつろさを題材にポエムでもしたためてみるかと試みる。数分で恥ずかしくなって全部消す。たまに受験滑りたくない気持ちが優勢となり部屋に篭りバズマザーズ「 東京デマイゴ」を爆音で、「 誰もひとりじゃない系の歌、山田亮一、嫌いそうだ」と考えながら流し、机に向かい積読を苦心してどかしてスペースを作り参考書を開いてみる。でも五秒で勉強がやな気持ちが盛り返してこころはまた空虚に支配される。もはやラノベや漫画も開けずただ床に寝ッ転がる。仰向けだと天井の蛍光灯が眩しいからうつ伏せになる。胸が床と密着してこの心臓の鼓動が体に反響しああぼくは生きているんだなとむりやり感動しようとしてみるけどまあ無茶な試みだ、自分の命の駆動を忘れるほどなにかに夢中になったりしているわけでもない。とりあえず顔を横に向けて眼を閉じて寝ようとしてみる。無理。眼を開ければこないだ片付けてだいぶ物が減った床だが埃がずいぶん溜まっていることに気付く。ロボット掃除機「 ぐるぐるくん( 命名:母)」を連れてきて駆動させる。彼の邪魔にならないようにと部屋を出て、ぼくは自分の部屋ですら邪魔な存在なのかとむりやりネガティヴになろうとするけどまあ無茶な試みだ、自分の存在すべてを否定するにはぼくはちょっと暢気と傲慢が過ぎる。リビングへ移り、まるで勉強をして疲弊したかのような顔を母親に見せつけながら何もしていないのに疲弊しているこころをコーヒーをがぶがぶ飲んで癒してまた戻る、参考書を開く、床のロボット掃除機が既に掃除を終えている地点に寝ッ転がる、寝ようとする、やめる。ロボット掃除機は「 邪魔だよ、おまえ」と言わんばかりにぼくの腰を連続してつつき、ぼくは「 さっきお前ここ通っただろ、ばか」と思うが口には出さないで黙っている。部屋がくさいことに気づく。ただでさえ淀んだ空気が床近くに溜まって澱になっていて窒息しそうだと思う。近所迷惑にならんようにとバズマザーズ「 軽蔑ヲ鳴ラセ」の爆音を、「 タイトル、警鐘を鳴らす、って言い回しからの連想かなあ」と考えながら止めて、窓、ふたつあるうちのひとつを開ける。涼しい夜の風が吹き込んできてすこし救われたような気持になる。散歩でもしてやるか、と思いつくけど、母親に心配をかけるのは本意ではないので、やめとく。とりあえずもうひとつの窓と、廊下につながる部屋のドアも開ける。網戸も窓がらすも汚くて夏中に一回掃除をしなくちゃなーと思う。もうPCの排気音しか聞こえないがまだ脳内で山田亮一の聞き取り辛いがステキな日本語とうるさすぎるテレキャスターの音色が流れ続けている。眼球は天井の角の白さを焼きつけんばかりに見ているが頭の中では行ったことないバズマザーズのライブの光景が浮かんでいる。あーくそ、勉強やだなー。

逃避

昼休み、学校の食堂裏の自販機にもたれかかってぞろぞろとコーヒーを飲んでいたら見覚えのない顔の女子生徒が半笑いで、「 おぼえてる?」なんつって話しかけてくるから、いやおぼえてるどころかまずしらないしどなた?なんでぼくの名まえ解るの? 怖いよ。と。思いながら曖昧に相槌打つとどうやら昔やってた習い事( たぶん書道教室かなんか)でそれなりに仲良くしていたひとだったらしく。ああおぼえてるおぼえてると口から滑り出るように少量の二酸化炭素とともに超濃度の嘘が漏れて、後はあいまいに笑いながらことばを交わし、結局相手が誰だったのかわからないままに会話は終了した。バラエティ番組だのクラスメイトの雑談だのから三ケタ単位で聞いてきた「 あるある」だけど、こんなにいやな気分になるもんだとは思ってもみなかった。ぼくと違ってふだんからコミュニケーションを積極的にとっているひとたちは日々こんな苦痛と闘ってしかもそれをネタにしたりしているのかと考えると、それもないのに毎日つらいような苦しいような気分で生きている自分の精神の脆さを実感して、いやになる。

 

最近、こころが摩耗している気がする。外に出るとき、とくに学校の休み時間はずっとイヤフォンの騒音で武装してないと一瞬で霊魂がだめになってしまいそうだ。中学のツレと頭空っぽにして遊んでいるとき以外救われた気がしない。全世界が自分を軽蔑しているような感覚、この間まで夜中限定だった感覚が、今じゃもう起きてから寝るまでずうっと続いている。時間の経過が悲しい。四月頭にブログのネタにした桜の樹が今じゃもうすっかり夏の装いで、排水溝かどっかに蟠って茶色く腐って死んだ花びらのことを考えて泣きそうになる。毎日の五時のサイレンに責め立てられている気がする。自分には感情が無いような気がして、自分自身への軽蔑と世界への呪詛がその代用を果たしていると感じている。自分はこのままじゃ駄目だってことは分かっていて、っていうかそれしか分かっていなくて、じゃあなんで変化しようって動かないのかって考えたらこういう風に鬱屈とした精神の自分がじつはちょっとカッコいいと思ったりしていて、それが気持ち悪くて消えたくなってしまう。最近やっと出てきた思春期の焦燥が、他人への嫉妬を自分の生活の虚ろさへの嫌悪に変質させてそれと混ざり合ってどうしようもない気怠さになって、こころにずっと居座っているんだった。

ツイッターにアニメや本の感想だけじゃなくて鬱屈をぐにゃぐにゃっと書き散らすようになったのはたぶんそのせいだろう。逆にそれがこころが摩耗してきている原因だっていうんなら即刻ツイッターをやめたほうがいいけど、そうじゃないと思いたい。じぶんの積極的な行動がこのこころを悪い方向へみちびくことなんてないと信じていないと生きてなんていられない。物質的な豊かさも他人とのつながりも期待していないぼくが唯一生きる意味としてよすがにしているのはこころをよりよくしていくことなのに、それさえできなくなったらもうただ学校行って帰ってきてラノベ読んで自慰行為にふけって寝て起きるだけのマシーンに成り下がってしまう。いやまあ、いま現在のぼくだって外形的には結構それに近いけど。

あれ、何を書こうとしてたんだっけ。忘れてしまったけど書くことはもうないような気がする。あーだるい。っていうか目下、明日の試験がめんどくさい。それが終ったらこれも治るんだろうと、とりあえず信じておきたいけど。でもこういう気怠さのピークは毎年夏休みだからむしろこっからこの鬱屈は膨らんでいくんだろうなってわかっているから信じきれない。旅行に行きたいと思う、どこへでもいいから。この世の外なら。

村上龍『 限りなく透明に近いブルー』を読みました

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読書メーターにだいたい大まかには書いたんだけど。でもちょっとあれだけの文章で済ませるのも勿体ないなと、いうわけで以下感想。

 

村上龍の著作が共有する核は、このデビュー作の中で既に完成しているんじゃないか。ぼくは村上龍の小説を読むのはこれが初めてだけど、読み終えて、なんとなくそう思った。というかここにないものまで書けるのだとしたらやばい。こわい。人類として、この作家に書けるものはここに既に全部出そろっているのだと思いたい。

ここに完成している村上龍作品の核、それを「 肉体性」とでもいうべきだろーか。リアリティを超越して現実の感覚に肉薄する、文章の熱量と情報密度だ。

たとえばいま、ぼくが痛みを感じたとして。それを表すには最低「 痛い」の二文字だけでいいけど、でもその二文字のもつ意味内容は、ぼくが実際に感じた感覚とはあまりにもかけ離れたものだ。どんなふうに痛い?どこが痛い?そもそも痛いとは何か?言葉と実際の感覚、両者の差異を埋めるには、そういうふうな疑問を発生させんべく文章を無限に書き並べていくしかないわけだが、この『 限りなく透明に近いブルー』で、村上龍はそれを、ぎりぎりまで切り詰めた最低限のセンテンスを用いてやろうとする。必然、文章一単位あたりに含まれる情報量が高まる。だからただ数行読んだだけで在りえないほど様々な感覚が喚起されて、それを受け取るためには多大なエネルギーが必要とされる。たぶんそのせいだろう、読んでいると冷や汗が出て動悸がして体温が上がったり下がったりして、とにかく疲れる小説だった。

 

で、物語について。ぶっちゃけ平坦で退屈だった。エンターティメント性が皆無。若者たちの退廃、堕落した生活を描いてはいるがそこに「 現代の若者に対する警鐘!」というようなメッセージ性はみえなかった。人間ドラマもドラマティックな展開も、ハラハラする活劇もここにはない。一応ストーリーの筋というようなものはあるけど、それはすべてさっき言ったような感覚の描写と、それを効果的に読者に伝えるための雰囲気づくりを行うための口実と呼んでもいいようなものなんだろう。セックス、ドラッグ、暴力。それらが喚起する強烈な感覚と、どうしようもなく退廃的で閉塞的、鬱屈として耽美な空気感。この『 限りなく透明に近いブルー』で、村上龍が描きたかったのはそういうものじゃないか。

 

「 文学は文章を読むもの、雰囲気を楽しむものだから、本来文学に物語はないべきだ」みたいな話をどこかで聞いたことがあるけど*1、その話に沿って言うならこの小説は「 本来の文学」にかなり近い。物語性がここまで薄い小説なんてふつう退屈で読むに堪えないもののはずなのに、これじゅうぶんに読める文学として成立している。それはやっぱりひとえにさっき言ったような描写の密度のたまものだろう。というかもしかして、ここまでやって初めて文芸作品は物語性を薄めることを許されるんじゃないか。小説ってむつかしいなとあらためて思う次第。

 

村上龍はほんとうウィキペディアで記事見たらぎょっとするくらい多作な小説家だけど、たとえ彼が描いた作品がこの『限りなく透明に近いブルー』一冊だけだったとしても、その名まえは文学史に刻まれたはずだ。村上龍という名まえが気になるのなら、まずはこれを読んでみるべきなんだろう。少なくともぼくにとってはそれがとても良い選択だった。

*1:書き終わってから思いだした。父親のうんちくだった。最悪。