トラベルプラン

 ようやっと受験が終わったっていうのに解放感とかは別になくて、そりゃここ一ヶ月勉強してなかったから当たり前なんだけどなんとなく拍子抜けしている。

 思ったより簡単に終わったしあんなに思いつめなくてよかったなとか、結局またまじめに頑張らないままやり過ごしてしまったなとか、そういうことをぼんやり考えて、気分が沈むわけでもないんだけどなんとなく気力が削げてしまいなにもできず、でももう勉強しなくていいと思うと自責の念とかは浮かんでこなくて、受験がなければ一日むだにしてもいいと思っている自分がいやになったら今度は明確に気分が沈んできて、そうすると余計ハヌマーンが沁みて読書どころではなくなってしまうんだけど、ここまでだらだら書いてぼくは読書をすればとにかく一日がむだではなくなると無邪気に信じている自分の浅はかさと、あとやたら文章が長くなっていることに気付く。こういうやたら長い文章はちょっと前のチャンドラーとかハメットとかワーワー言いながら読んでたぼくからするとダサかったはずで、今でもそんなに文章の好みとかは変わってないはずなんだけど。保坂和志とか堀江敏幸とか読んでたから移ったんだろうか。単純に文章の区切りとかわりとどうでもいいなと気づきはじめたからかもしれない。

 

 ひさびさに夜更かしをして起きたら昼過ぎで、やる気もクソもなくて空っぽの胃袋ににコーヒーを流し込んで後悔して、小学生のときやってたゲームボーイアドバンスのゲームを引っぱり出してしょーもないミニゲームとかやったり色んな音楽をつけたり消したりしていたら夕方になってしまった。日が傾いて部屋はもうだいぶ薄暗いんだけど電気つけるのも面倒くさい。パソコンの液晶が眩しい。こういう時にハヌマーンとか昔から好きなバンドの音楽かけるとほんとうにだめで、一日を無駄にするだめな自分に陶酔してより一層だめになってしまうのでやめて、キーボードのぱちぱち鳴るのと窓の下にだらだら注がれる車のエンジン音だけを聴いている。どっちにしたって湿っぽい気分にしかならないんだけど、まあ多少はまともな考えごとができるようになる気もする。

 

 考えることが多すぎる。たくさんあって混線して全部滞っている。旅行とか引っ越しとか新生活の準備とか、具体的なことが生活のなかで動くのに触発されて自分について考えることも増殖してしまって、なんにもわからなくって混乱している。まあたぶん数日したらたいてい忘れるしなんなら今日寝たら治ってるようなタイプのやつっぽいかあらべつにいいんだけど、なんかあれだ、書いてるうちになに書いたらいいんだかわかんなくなってきた、夕方に投稿しようと思ってたのにぼやっとしてたら夜になってるし。

 

 そういえば今年最初の更新だった、去年はなんか2週間に一回とか1か月に一回とかわりとよく更新してたけどあれはほんとうになんであんなことしてたんだろう、言いたいこともなかったっぽいのに。やっぱり自分のことをもうちょっと考えなきゃいけないっぽい。とりあえず今日は早く寝ようと思う、明日登校日だし。なんか卒業式の予行かなんかで、そんで明後日が卒業式で、めんどくさいなあと思う。クラスメイトがびしょびしょ泣いてるのを数時間見つづけなければいけないのほんとうにめんどうくさい。高校クソ、キャンパスライフ楽しみ。寝ます

整理

「部屋」というタイトルの記事にしようと思ったんだけど、おんなじタイトルで前に書いてたので、やめた。まだ一人称に「私」を使っているころのやつだ。読みかえすと恥ずかしい。思えば、ずいぶん性分に合わないことをやっていた。なにも言いたいことなんかないのになにかを言おうとしたり、自分の暢気さを押し殺してむりやり思いつめようとしたり。何にしても、気負い過ぎていたんだと思う。

 

部屋があんまり汚いもんだから片づけることにした。もうほとんど忘れてしまいかけている数日前の憂鬱に、とどめを刺すための気晴らしみたいな意味も込めた、年末の大掃除だ。まあそんなにたいそうなものはできないんだけど。落ちているものをあるべき場所に戻して、捨てるものは捨てて、掃除機をかけて。本来ならふだんからこまめにやらきゃいけないことをまとめてやるだけのこと。

汚い部屋を汚くない部屋にするのは簡単だ。一瞬で終わる。床に落ちているものをひろって片づけて、片づけがたいものはとりあえず部屋の隅に追いやれば、見たところ汚くはない、という状態にはとりあえず持って行ける。問題はそのあと、汚くない部屋をきれいな部屋にする作業。これがめんどくさい。ようはさっき大雑把にやった片付けの仕上げ作業なわけで、地味だし長い時間がかかる。疲れてくる。しんどい。あんまり爽快感がない。気が滅入る。凝り始めるときりがない。でもまあ放っておいたら部屋が勝手に片付くわけでもなし、仕方なくだらだらやったら半日かかった。手際が悪すぎる。

 

しかし、片づけてあらためて思うことだけど、部屋がダサい。家具の色はバラバラ、位置は適当、カーテンもカーペットも薄汚れている。そもそもコンセプトからして散らかっているのでいくら片づけてもどうしようもない。部屋は人の心を映す鏡って話、あれはやっぱり本当なのかもしれない。物が少ないのに常時散らかりっぱなしのこの部屋は、感情の波が小さいのに情緒不安定なぼくにそっくりだ。

あー。自分語りはやめよう。

 

片付けが終ったら本を整理した。というか、減らした。つまらなかった本を、おもしろいけどよく憶えていない本を、憶えてるけどもう読まなさそうな本やらまた読むだろうけど確実に図書館にある本、買うだけ買って興味の薄れた本まで、片っ端から古本屋に送る段ボール箱に詰め込む。ついでにCDもいくらか。

下宿に引っ越すことも考慮に入れながら、いくらか寂しい思いもしつつ取捨選択をしたせいか、けっきょく、手元に残るのは、漫画と活字の本と写真集とぜんぶ合わせて、五十冊にもならなかった。積読のほうがなんならちょっと多い。

ほんとうに自分に収集癖がなくてよかったと思う。もしあったら、読書趣味から本を収集して、アニメ好きからフィギュアやポスターを集めて、特撮おもちゃをコレクションして、とにかくもうキリがない。ただでさえ整理整頓ができないのに、このうえ部屋のものが増えたりしたら。考えるだけで脳がぞわぞわしてくる。

 

稲垣足穂一千一秒物語」、田村隆一「詩集1999」、レイモンド・チャンドラー「さよなら愛しい人」。今年買った本のなかでは、村上春樹ダンス・ダンス・ダンス」、レイ・ブラッドベリ火星年代記」、とか。手ばなせない本がちょっとずつだけど増えて、年始の本棚の空白はだんだん埋まっていく。いつか新しい本を読むことに疲れてしまったら、そういう本だけを繰り返し繰り返し読むことになるのだと思う。それは悲しいことで、ちっとも輝かしくはないけど、わりかし、楽しくて清潔そうだ。その未来のために本を読むって考えてみるのも、まあ、悪くはない。

最近はあんまり読書に時間が割けていなくて、寝るまえに上にあげたような本をちらっと読むくらい。でも受験が終ったらまた一日二三時間くらい使うことになるんだろう。

読んだ冊数とかどうでもいいと素直に思えるようになったらいいなあと思う。読書なんかぼくにとっちゃただの暇つぶしなわけだし、暇になったら、気が向いたらやろう。そんなもんでいい。

何にしても、気負いすぎないことだ。

冬/街/これからの生活

冬が好きだ。十二月のつめたい空気と明瞭な陽の光のなかでは、自分自身の輪郭も、いいかげんみすぼらしくなってきたコンバースの汚れ、ポケットでくしゃくしゃになったレシートの感触、ベンチに座る女の子の烏色のコートのほつれ、バス通りに流れ込む車のエンジン音も、なにもかもがはっきり、きっぱりしている。ストーブの効いた四号車から駅のホームへ、一歩出て空気のつめたさに驚くとき、ぼくは冬の厳しさと対面している。そいつは一ミリの妥協もなく、世界を冷徹に割りきり、ぼくの眠気を切りきざむ。

冬が好きだ。毎日毎日なにかを妥協してなあなあで生き延びている、ぼくはその美しさに憧れずにはいられない。たまにはコートのポケットから手を出して歩いてみようかと思ったけど、霜焼けになるのが怖くてやめた。マフラーをきつく巻きなおして、帰り道をたどる。

 

からまったイヤフォンのコードをほどきながら、信号が変わるのを待っていた。電柱も街路樹も建物もみんな、澄んだ空に挑んで負けてみじめったらしくそこらに突っ立っている。からっぽの空はなんにもないところに便宜上青い色がついているみたいで、排水溝で腐った落ち葉は茶色くて、犬の散歩をするおばさんの着るウィンドブレイカーはドぎつい蛍光色。雪の降らない地域に住んでいると、冬のイメージってだいたいこういうものになる。

この交差点からなら、給水塔が三本、一気に見渡せる。そのこと気づいたのはほんとうに今月に入ってからのことだ。そのうち一本についてはそもそも存在していることさえ知らなかった。

小学三年生から住んでいるっていうのに、ぼくがこの街についてわかっていることはあまりにも少ない。たとえば、未だに一丁目公園の場所が分からない。だいたいどのあたりか、は何となくわかるんだけど。顔は出てくるのに名前が出てこない、あいつの家から近いのは知ってる。

 

コードをほどき終わってから五秒くらいで信号は青に変わる。横断歩道を渡りながら、三者面談で先生が言った、まあまず浪人はないでしょう、って台詞を思い出していた。どこの大学に行くにしろ、春からは今住んでいる家を離れる。獲らぬ狸の皮算用だと自分でも呆れながら、これから暮らす知らない街や、独りぐらしの大変さに思いを巡らせてみる。あとぼくのいなくなった家と、母親の独り暮らしのことも。

まあどこに行くにしたって、たぶんだいたい同じなんだと思う。すばらしいものもくだらないものも、なんだって生活に組みこんでしまえば大したことはなかった。自分の身体と一緒だと思う。愛着は生まれても感動はしない。美しいとも醜いともいまいち思いづらいし、美しいとか醜いとか、感じたところでそれは一時的な感想でしかない。ただ、ぼくの生活だというだけだ。人間、いちいち身の回りのことに心を動かしたりしない。そんなことしていたら疲れるに決まっているからだ。

どこにどんなふうに住むにしたって、とにかくぼくはそこで生活する。つまらない大学にだってそれなりの楽しみはある。すばらしい大学だとしても一週間で飽きる。暑い街なら冬が楽だし、寒い街なら夏が楽だ。独り暮らしはたいへんかもしれないけどどうせそのうち慣れる。寂しいのはいつものことだ。ぼくのことだからうまくはやれないだろうけど、まあ、それなりにやれるだろう。とにかく、今から心配するほどじゃない。今日はとりあえず今日すべきことをこなしたほうがいい。勉強とか。勉強なあ……。

バースデイ

誕生日だ。18歳になった。でもきのうの風邪がまだ続いている。熱は引いたけどなんとなくだるい、くらいの中途半端な体調で、自分の体ながらなんだか居心地がよくない。べつにパーティがあるわけでもなし、問題はないんだけど、ちょっと幸先わるい。

学校を休んで、母親がぼくの弁当のために炊いた米を雑炊にして食べて、またちょっと寝る。そのあと起きて着替えてコーヒーを飲んだら、学校行ってもよかったんじゃないかって思うとか、きのうの反省とか、しなくてすむくらいには気分がよくなった。

PCをひらいたら、一年前の自分のツイートがtwilogのほうには残っていて、それをなんとなく読みかえしたりする。特撮やアニメの感想をたくさん書いていてふつうにオタクみたいだ。言い回しがいろいろ恥ずかしいけど、言っていることは今とそんなに変わらないような気もする。まあ成長する理由があるわけでもないし、当たり前か。

ただ、本を読むのと文章を書くのとはうまくなったと思う。一年前読書メーターに書いた本の感想は、肩ひじ張りすぎて要領を得ないし、あんまりおもしろいと思った記憶のない本をむりやり賞賛していたりする。あとこの頃は量を読まなきゃと思っていた時期だったので、たぶん文章のかたちを今ほどちゃんと見ていない。まあそのへんは単なるスタイルの違いなんだけど。

母親が出かけていったら、スピーカーで音楽を流した。いちばん最近買ったやつから順番にさかのぼってみる。そういえばPeople In The Boxを聴きはじめたのもここ数か月の話だ。

一年前の自分がどんな音楽を聴いていたのか、はっきりとは思いだせない。ハヌマーンは確実に聴いていた。17才の誕生日に「17才」を聴いてぼろぼろ泣いたのは鮮明に憶えている。きのう12時過ぎ、同じ曲を聴いた。不思議と泣かなかった。ただ、いい曲だなと思った。だいいち、なんで17才を懐かしむ曲を聴いて17才の人間が泣いていたんだろう。我ながらよくわからない。

なんかうまく文章がまとまらない。17才って年齢についてあれこれ書こうと思っていたんだけどそんな気になれない。都合のいい教訓を引き出すのもなんだかできそうにない。18歳のぼくは御託をならべるのが下手なんだろう。いいことなのか悪いことなのかはいまいちわからない。

母親から電話がかかってくる。ケーキを買った、今から帰る、コーヒーでも淹れておいて、とか。そういえば、来年からは誕生日をひとりで過ごすことだってありえるし、家族に祝ってもらえるのも今年が最後になるのかもしれない。そう思いながら、珍しく、ちゃんと時間を計ってコーヒーを淹れた。

十月

今日は体育大会だった。残念ながら晴れた。遺憾ながら健康だった。ので、行った。

すこし走って、やや跳んだ。あとはじっとして長いこと本を読んだ。盛り上がる応援席のすみっこで、ひとりだけ葬式会場にいる( 葬られる側で)みたいな顔で村上春樹を読んでいると、ひどく悲しかった。自分だけ世界からすっかり切りはなされたみたいだった。

それは錯覚だったとしても、実際、ぼくは完璧に学校世界からは切りはなされていた。体育大会のときにこんな辛気くさいツラして本なんか読んでいるやつはどうもいなさそうだった。ぼくはあきらかに浮いていた。でもべつに中学のときみたいに嬉しくなかった。中二病は治ったわけじゃない。病状が複雑化したから、この程度では満足できなくなったんだ。

そういう考えごとをしていると、BGMのポップソングとナントカ先輩を応援する甲高い絶叫とが急に不愉快に思えてきて、ぼくは本を閉じて、騒音武装をした。秋の空は高い。なんで高いんだろう。単純に、見上げる機会が多いからだと思った。秋以外の季節に、その高さを思うくらいじっと空を見上げることなんてまずない。

記念写真撮影にも苦笑いで加わった。それから帰った。バスを待つのはたるかったので、道は釈然としないけど歩いて帰った。二時間かかった。周囲に誰もいないのを確認してから、そこそこの大きさの声でハヌマーンをうたった。Fuzz or Distortion、十七歳、とかそのへん。そういえば、ぼくが十七歳でいられるのもあと三十二日しかないんだ。そう思うと足の疲れもいとおしく思えてきた。錯覚だ。

言いわけ

また小説を書いた。掌編にも満たないくらいの量だけど、時間はけっこう喰ったはず。思いついたふたつのフレーズの間を埋めて文章にする、って手法をつかってみた。それが時間喰った原因かも。でも、浮かんできたことばからイメージを膨らませてそれを入れこんで、ってプロセスはわりと性に合ってるように思う。

傍からみてどうかはわからないけど自分としては前よりよく書けたなと思えるし、積極的に自己満足として創作をやろうとしているぼくにとってそれはたいへん喜ばしいことだ。なにより楽しく書けたのがとてもよかったと思う。「 潜水」を書いてる時分はずっと「 日本語殺しておれも死ぬ」とか考えていたし。たぶん物語と、文章にいれこむこと、その順番を先に決めてから文章を書いたのが疲弊の原因だった。

書きたいことと書くべきことがすり替わる。今回はそれがなかった。文章を書くのと何を書くのか考えるのが、連動するタイミングがわりとあった。

全体像を想像して組み上げていくよりも、つねに次の一行をさがしつづけるって心持で文章を書いて、いつのまにかそれが物語になっていたりしたならそれはとても幸福なことだと思う。限界まで作為をけずって純粋に感覚を試していけるし、なんらかの結論をめざす思索の過程がきちんとのこる。また作品に真剣味が生まれる。押し殺そうとしてそれでも消えなかったような、強力で切実な作為だけがその場にとどまるからだ。

 

とか。量も質もたいしたもん書いてない人間が創作論モドキをぶちまける恥ずかしさは文芸部で重々承知なのであんまり長いこと、創作のあるべき姿、だとか書き散らかすのはやめる。そういう話をしようと思ってたわけではなかった。

ぼくはなんで小説を書きはじめたのか。書き終わってまた考える。べつに書きたいことがあるわけではないし特段だれかに評価されたいわけでもない。小説が書ける自分になりたいからだ。できたものに自分で満足したいから。

でも自分で自分を認めたいって欲求は前々からあったのに、どうして今それが立ちあがってきたのだろう。って考えるとやっぱり受験だ。点数のつく勉強以外に自分に価値があるって実感がほしかった。まったく大学受験なんてものに簡単に精神を左右されすぎだ。ほんとうに自分がない。人間性が欠けてる。

って、書いても前より落ち込んでない。なら、たぶん小説書いてる意味はそこそこあるのだ。今後も鬱屈としてきたら小説書くようにしよう。しんどくなったときの現実逃避。そんな認識でいいと思う。ぼくはいつも創作行為を畏怖しすぎる傾向があるから。書きたくて書く、それ以上の意味はなくていいんだ。創作は創作。たかが創作。

火曜日/保健室

「 保健室行ったって先生に言っといて」

「 わかった」

三限目と四限目の間、九月六日最初で最後のクラスメイトとの会話を終え、るんるん気分をひた隠しに、ふだんから辛気くさい顔をさらに辛気くさくさせて教室を出る。完璧に踵がつぶれて外目にもスリッパじみてきた上履きがリノリウムのうえ、ぺたぺた鳴る。

この学校には陰湿な暗黙のルールがいくつかあって、そのうちのひとつが、先生とすれ違ったら挨拶をしなければいけない、というの。(仮)病人であるぼくであってもそれからは逃れようがない。ふだんよりきもち低い声、最低限の口の動きで言う「 こんにちは」は自分で言ってても外国語じみて聞える。こんにちは、よりもfurniture,に近い。

保健室のドアには見慣れない看板がかかっていた。そこでは幼稚園児に相撲で負けそうな顔した灰色のゾウが、養護教諭の不在を伝え、保健室をつかう場合は職員室に行くよう促している。しんどくないただただめんどくさい体をさもしんどいかのように職員室へ引っ張っていった。顔を合わせた先生に心配してもらうたびに騙しているような気がして申し訳なくなる。と、そこではじめて実際騙していることに気づく。誰にもみえない角度でちょっと笑う。

授業を受けたこともなければ名まえも知らない先生になぜか顔と名まえが知られていて親身にされ若干ビビりながら、鍵を開けてもらって保健室へ。ぼくがベッドに入ったのを確認して、じゃあ三限終わったら来るから、と言い残して先生は去って行った。すこしして四限目始業のチャイムが鳴る。ほかの生徒がみんな集まって授業を受けているなかひとりだけ誰もいない保健室で惰眠をむさぼらんとしている、その事実がすこしぼくを昂ぶらせて、もしかしたら睡眠を多少妨げたかもしれない。

保健室の夏布団は絶妙だ。それなりにしっかりとした布団なのに暑くない。冷房と打ち消し合ってちょうどいい。それにひきかえどうかと思うのが枕だ。固い。ほぼ石。寝て起きると三分の一くらいの確率で「 うわっ、石!」ってなる。それくらい固い。石。

石に頭を乗せ、洞窟で暮らし布団なんかない状態で寝ていただろうはるかな祖先に思いを馳せたり、まわりの音の耳を澄ませたりする。エアコンの唸りとときどき近くを通る先生の足音、国道に注ぎ込まれる車のエンジン音以外にはなにも聞えてはこない。千人単位でうるさい盛りの十代が集まっているのにここまで静かなのは不思議だと、保健室に来るたびに思う。まさか私語をすれば鉄拳が飛んでくるなんてことはないだろうし、どの教室でもそれなりに喋り声が聞えているんだろうけど。それでもすこし離れてしまうとこんなにも静かだ。それはかなり変だ。

頭はぐるぐる空転していても、目を閉じていればだんだん眠気が来て、考えごとの輪郭がぼやけてくる。

寝れそう。

寝た。

チャイムでもう意識は戻っていて、それでも先生が声をかけるのを待ってからもそもそ起きてくる。大丈夫か、はい次の授業は出れます。お決まりの応酬ののちに保健室を出る。ドアを開けた先は思っていたほど暑くない。もう秋か、と情趣に浸ろうとしてみるけど、昼休みの騒がしさがそれを許しはしない。

さっきまであんなに静かだったのに、チャイムひとつでこんなにうるさくなるなんて。やっぱり学校ってのは不自然なもんだなって、溜息つきながら、それでもその不自然の中に、ぼくはのろのろ戻っていく。寝てる間に前髪が変なことになってないかが、すこしだけ気になる。